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愛知県新城市

姥ヶ懐(武田浪人組陣地、三枝兄弟の墓)

2014年08月15日

姥ヶ懐の地名は、日だまりの、姥の懐のように穏やかで暖かい地形を呼ぶとされ、この地特有の言葉ではないようである。このような所、低くて展望も十分でない。しかも上に登れば、いかにも砦にふさわしい鷹の松があるのに、あえてこの場所を選んだ理由は何であったか。
武田軍は、宇利、小畑、黄柳(現黄柳野)、竹ノ輪、ここから山伝いに谷下川上流に出てこれを下った。しかも流松近くの姥ヶ懐に兵糧、その他資材を蓄えたと言われている。それは、その当時の見聞がそのまま語り継がれたのか、後世の考説であるのか。
けれども、戦いの控えの場として、多くの軍馬、駄馬の係留、秣の確保、渓流の水、それらを思い浮かべても実に最適の場である。そしてこの兵站の基地本部長は、三枝守友がつとめたのである。
この砦を守ったのは、三枝勘解由左衛門守友、同弟源左衛門守義、同甚太郎守光、牢人組頭・草苅隼人助、宍戸大膳ら350騎、足軽100人。
三枝氏は甲斐の名族であった。三枝土佐守虎吉の子に、勘解由左衛門守友、源左衛門守義、平右衛門昌吉、監物吉親、甚太郎守光らがあったとされる。実はここで戦死した守友の嫡子守吉は、武田氏滅亡後、祖父虎吉に従って家康に仕えている。
ともあれ、奥近習から足軽大将になった三枝守友が一族を率いて参戦した。ほとんどが西上野牢人組で編成されたこの方面に、有力と思われる武将、特に小荷駄支配などを任としていた三枝守友が配されて、姥ヶ懐の砦を守るのは、この砦に特別な任務があったと考える。
(鳳来町誌 長篠の戦い編より)

 



2012年05月04日

三枝兄弟の墓入口の所に車を止めて歩いていくと上の写真のような場所にたどり着くことができます。周辺には長篠城のぼりまつりの旗が立っていました。
墓碑には、三枝守友の墓、三枝守義の墓と書かれていました。三枝守友は真田昌幸等と共に奥近習を務めています。

 

 
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