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長野県木曽町

長福寺

2013年08月02日

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龍源山長福寺略縁起
当寺の創草は遠く大宝2(702)年岐岨山道が開けた頃、当郷薬師平付近に創立された古寺と伝えられ、後小丸山城下に移り富田山長福寺と称していた。
木曽家治世の中、永享2(1430)年13代源太郎豊方公先祖追善のためこの地に再興。筑陰禅師を開山となし多くの寺領山林を寄進して木曽三刹の一つとされる。次いで16代義元公も龍源寺を再興されたが、後長福寺に合併。爾来龍源山長福寺と改称する。
永正(1504〜1521)の頃義元公の伯父信叔紹允禅師、京都妙心寺獨秀乾方禅師の法を嗣ぎ当寺に住して妙心寺派を興す。これにより木曽路、諏訪、松本方面に妙心寺派の禅風大いに振う。故に信叔系の法源なり。
戦国の世の天正元(1573)年甲斐の武田信玄公病没する。時に19代義昌公は義父追善の為当寺に墓を建て廟所となす。又木曽代官山村公も先祖以来の菩提所なり。
文禄3(1594)年、嘉永3(1851)年、昭和2(1925)年と大火に遭い、特に昭和2年には木曽義仲公出陣の太鼓等々幾多の重宝を焼失する。昭和49年に復興工事を完成。
(看板資料より)

<EOS M EF-M18-55mmf/3.5-5.6ISSTM 18.0mm Tv:1/200 Av:8.0 ISO:100>


武田信玄(晴信)公墓碑

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武田信玄(晴信)公墓碑由来
天文24(1555)年3月、甲斐の武田信玄は再度木曽を攻略せんと、自ら兵数百を率いて鳥居峠を越え薮原に出陣す。迎える木曽勢は、地形険峻天然の要害を利して戦い持久戦となる。然るに同年8月に至って十八代義康公は木曽の安全を計り和議を申出する。
信玄公その和睦を大いに喜び木曽家は源氏の正等高家なる故を以て息女万里姫を十九代義昌公のもとに嫁がせて親子の縁を結ぶ。
天正元(1573)年4月12日信玄公伊那駒場にて病没す。享年53歳なり。
時に義昌公は奥方万里姫と共に父信玄公追弔の為、当所に遺品を埋め五輪の塔を建立して廟所となし、毎年旧7月12日、二百把の松明を献して供養をなせり。
(看板資料より)

 



1985年04月03日

昭和60年の春休みに家族旅行で木曽方面に行ったが、先日アルバムを見ていたら長福寺という寺に武田信玄公の廟所があり、その写真もあったのでここに掲載しました。多分私が撮影したものだと思いますがまったく記憶にありませんでした。事前調査不足により先日木曽に行ったときに寄ることができず残念でした。

 
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