豊田藤助屋敷跡 |
2012年05月04日 |
天正3(1575)年、奥平貞昌(後に信昌)が城兵五百で守る長篠城は、一万五千余の武田軍に包囲され落城の危機にさらされていた。この長篠城を救援するために織田・徳川連合軍三万八千が連吾川の右岸、弾正山・設楽原に布陣した。武田軍は、城の対岸鳶ヶ巣を中心とする五砦他を残し、主力を連吾川左岸の信玄台地一帯に移動した。 |
屋敷跡には子孫の方のお宅があって、松山越えのルートを聞くべくベルを鳴らしてみましたが、ご不在だったようでお会いすることはできませんでした。
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