武田国信は安芸武田本家の信繁の三男である。系図上は信栄・信賢の弟であり、永享10(1438)年安芸で生まれた。国信の字は兄信賢と同様に彦太郎と呼ばれ、治部少輔、大膳大夫を拝命し、若狭・丹後両国の守護職と安芸分郡守護職に就き、2人の兄と同様伊豆守に叙せられた。また国信は将軍家の御供衆であり最終的には従四位上を賜った。
国信の嫡子信親の菩提寺栖雲寺の文書によれば、その昔三代将軍足利義満が丹後の切戸文殊への参詣の帰途、何回か小浜に立ち回って玉花院や栖雲寺を宿とし、その折に浴室を造ったり改造したりして両寺の間に黒木の渡り廊下を造った。若狭歴史民族資料館の「中世若狭」によれば国信の菩提寺玉花院は小浜市浅間の東光寺の山号が玉花山であることからその辺りにあったらしいが、のちに荒廃した。現代の栖雲寺と東光寺は道を挟んでほとんど向い合っているので東光寺は玉花院の跡に造られたものと思われるが武田国信の墓はない。
(安芸・若狭武田一族より) |