滝川助義の墓
設楽原の合戦においては、織田信長麾下瀧川一益の旗本として左翼最前線で奮戦。また澤の尻の殿戦に於いては武田方笠井肥後守を討取り、信長公より感状、賜盃、銘照重の太刀を拝領するなど抜群の戦功を挙げるも重傷のため、翌日瀧川屋敷にて死去する。
(石碑記載文章より)
天正3年5月21日、出沢の尻の殿戦に、甲州の敗兵を滝川猿橋へ追詰め追分の手前の大渕巌頭で武田の旗本笠井肥後守満秀を討ち取り、信長公より感状を賜る。重傷のため翌22日死去した。行年36才。嗣なく滝川家は慈に一頓座を来した。
助義の位牌は龍泉寺・勝楽寺に安置され、安永7(1778)年11月、勝楽寺丹翁和尚によって謚号が贈られた。「清浄院本覚了然居士」、助義の霊は、出沢字亦谷の滝川家の墓に眠っている。
(設楽原戦場考より)
|