安芸の守護は南北朝期初頭から武田氏が信武→氏信と世襲したが、応安4(1371)年に今川了俊に替えられてから、細川氏、渋川氏、山名氏などが歴任し、以降武田氏は事実上分郡の守護職として佐東、安南、山県の各郡の分郡守護となっていた。
応仁の乱の後、明応2(1493)年、管領細川政元のために将軍の座を追われた足利義材は将軍職奪回に執念をみせ、初め北陸に逃れた後、同9年大内義興を頼って山口に下ってきた。義尹(義材が改名)・義興は各地の守護・国人に協力を呼びかけ、最終的にはほとんどすべての安芸国人が永正4(1507)年暮れに足利義尹を戴きながら東上を開始した大内軍に加わった。武田氏は金山(銀山)城にいた元繁は大内氏にくみしたが、若狭を本拠とする惣領元信は幕府方に属したため、ここに安芸・若狭両家に分裂することになった。
大内軍は労せずして入京することができ義尹は15年ぶりに将軍に復帰し事実上細川・大内連合政権が成立した。
しかしその後、多くの国人達は帰国してしまった。安芸では佐西郡で神領衆らが東方と西方に別れて抗争を続けていたため永正12年大内義興は武田元繁を下国させることにした。しかし元繁は安芸に帰って間もなく反大内氏の旗幟を明確にし神領衆の東方を支持して西方の己斐城を囲んだ。大内義興は吉川元経と毛利興元に山県郡有田への出兵を命じた。これは山県民部・有田・今田の3人が武田氏に従軍して己斐城攻撃に加わっていたため、彼らの本拠をつくことによって、はるかに己斐城を救援しようとする作戦であった。吉川・毛利連合軍はたちまち山県民部の有田城を攻略したので、武田軍は己斐の陣を撤退しなければならなかった。有田城は毛利興元から吉川元経に譲られた。陰徳太平記などによると吉川元経は武田方から寝返った小田信忠を有田城に置いたというが明証はない。
武田氏は有田城奪還のため、まだ武田方にとどまっていた今田氏の今田要害に本陣を置いて対峙した。その後戦線はしばらく膠着状態が続いたが、永正13年8月毛利家当主の興元が2歳の嫡子幸松丸を残して没し、毛利氏にとっては苦しい状況となった。そこで武田元繁は攻勢に転じ、まず翌14年2月吉川領の宮庄に出兵した。これに対して吉川氏は江田弟法師森脇縫殿允らの奮戦でこれを撃退したようである。この後しばらくの間は両軍の動きが止まるが、10月になると武田軍は有田城攻撃を本格化させる。陰徳太平記によれば10月3日から猛攻を加えたため、城将小田信忠は降伏を申し出たものの、武田元繁はこれを拒否したという。
22日、毛利軍は有田城救援のため、多治比から押し寄せて来た。武田元繁は毛利軍来襲に備えて、中井手に柵と土塁で陣を構え、熊谷元直を配置していた。果して毛利軍が押し寄せたが元繁は毛利・吉川軍の本隊が自軍に向っていると誤解して、中井手への援兵派遣が遅れ、守将熊谷元直は吉川元経の送った侍大将宮庄経友によって討たれてしまった。熊谷元直の討死を聞いた武田元繁は、伴繁清、品川信定らに有田城の押えを任せ、自ら大軍を率いて毛利軍と激突した。毛利軍は大将元就の奮闘もあって善戦したが、衆募敵せず次第に後退し、又打川の東まで押し戻された。この勢いに乗じた武田元繁が戦闘に立って馬で川を越えようとしたその瞬間、元就は「あれ射て落とせや者共」と号令した。退却中の毛利軍から一斉に放たれた矢が元繁の胸を貫通し馬から落ちたところに井上左衛門尉が駆け寄って首を取った。元繁の戦死を知った武田軍は総崩れとなり、残兵は今田要害に戻った。
今田の武田陣では、敵が油断している今ただちに弔い合戦をすべしと主張する香川行景・己斐師道と、ここは退いて元繁の遺子光和を盛り立てながら反撃の機会を待とうという粟屋繁宗らが対立した。結局香川・己斐の2人が翌日再び有田に出陣して討死した毛利元就は前日戦死した熊谷元直に香川・己斐を合わせた3人の遺骸を円光寺に送って供養し、その他の雑兵の首はまとめて埋葬して首塚とした。
元繁の戦死した場所は今田、中井手など諸説あって確定できない。
この有田合戦は武田氏の威勢を大きく失墜させることになり、逆に初陣を飾った毛利元就は安芸国人の中に占める地位をいっそう確固たるものにしたうえ、元就自身も家督相続の足場を築くことができたのである。
(千代田町誌より)
有田城の駐車場に書いてあった説明文によると武田元繁戦死之地の石碑は又打川河畔にあるとのことでした。北広島町役場の教育委員会に行って聞いてみましたが誰も分からないようでした。
役場の横に中央公民館があったのでそちらに行って武田元繁戦死之地の場所を聞いてみたところ、場所は分からないようでしたが町誌に載っていた写真を手がかりにして大体の場所を割り出してくれました。
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