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群馬県藤岡市

高山城

2013年01月01日

日野城とも呼ばれ高山氏の城。
要害山城、天屋城、百間築地の砦等から構成されている。複合城で珍しいものである。
天屋城はこの城の西南部にあり、標高287メートルの三角点にあり北端を本丸としそこから西北、東南、西南にのびる。三筋の尾根を掘切って築いた山城。
要害山城は天屋城の西北250メートルに本丸を構えた梯郭式山城で標高180メートル。
高山城百間築地要害山は北下が高山城の本郭で東西200メートル、南北100メートル余り西北部に百間築地と呼ぶ石畳址がある。
(看板資料より)

平井城の南1.5kmの鮎川東岸にあり、天屋城・要害山城・百間築地の砦などからなる複合城郭である。高山氏は武蔵児玉党の高山重遠を祖とし、治承4(1180)年、源義仲に従い信濃横田河原で戦って以来、『吾妻鏡』の各所に名が見える。子孫相伝したが、天文20(1551)年、平井落城以降北条氏に属し、永禄3(1560)年の上杉政虎(謙信)越山の際は政虎に従い、同6年には武田信玄に降り、同11年頃、北条・武田が戦った時、信玄の指示によりこの城の南の堡塁を築いて以降、もっぱら上野・武蔵境の守備にあたった。天正10(1582)年、武田勝頼滅亡ののち滝川一益の支配下に入り、高山遠江守定重(彦兵衛重成)は神流川の戦いに奮戦した。その後は北条氏直に降り、天正13年11月から新田金山の西城に在城、天正18年、小田原に籠城して北条氏と運命を共にした。
(日本城郭大系より)

 

 
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