高根城は遠江最北端に位置する山城で、標高420m・比高150mの通称三角山の山頂部を中心に築かれている。城址からは水窪町中心部及び北遠江と南信濃を結ぶ主要街道を見下ろすことが出来る。高根城はこの1本の主要街道を押さえることと、信濃国境警備を目的として築かれた城である。
城は山頂部に本曲輪・二の曲輪・三の曲輪を南北に配し、各曲輪には堀切が設けられている。南端部に城域を区切るために真中に土塁を挟んだ二重堀切が設けられ北側堀切は三の曲輪を取り巻くようにU字を呈している。城の東西に位置する崖地形を生かし、巧みに堀切を取り入れたコンパクトな姿は、戦国期の形態をよく残す。
城の創築は、出土遺物から15世紀前半、地元国人領主奥山氏が築いたと考えられる。その後、今川氏親等から安堵状を得ているため15世紀末頃から今川配下に組み入れられたと思われる。奥山支配は今川家の没落と、武田氏・徳川氏の台頭があった永禄年間後半頃に大きく変化することになる。「遠江国風土記伝」によると、永禄年中(1558〜70)に、信州の遠山土佐守に攻められ落城したと伝わる。永禄12(1569)年には、今川氏真・徳川家康双方から所領安堵状を、元亀3(1572)年には武田信玄からも安堵状を得ている。遠州?劇の頃、奥山氏内部で、今川・徳川・武田のどこに組するかで内部分裂が起こり、奥山惣領家が滅亡し、最終的に傍系が武田配下に組み込まれた可能性が高い。
元亀3年8月には、武田軍が在番することが可能な城となっていたことが、高遠城の保科筑前守に対した武田信玄の28カ条の軍役条目から判明する。天正4(1576)年遠江から武田勢力が一掃される。高根城も、この時点で廃城となったと推定される。現在見られる高根城は、出土遺物やその構造から、元亀2年〜天正4年の間に、武田氏の手によって、現在見られる姿に大きく改修されたのである。
江戸時代に奥山氏を祭る稲荷神社が造られ、現在も山頂に稲荷が祭られている。この稲荷神社に伴う改変を若干受けているが、武田氏の原型を良く留めていると評価されよう。
平成6年〜11年にかけて、本曲輪を中心に発掘調査が実施された。この調査によって本曲輪から礎石建物1棟、堀立柱建物2棟(内1棟は、2間×2間の井楼櫓と推定)、礎石城門1基、堀立柱城門2基、柵列1条が検出された。また本曲輪の南側下段から、堀立柱城門1基、柵列1条、木橋跡、梯子跡も確認されている。最も注目されるのは、各曲輪を結ぶ城内道が完全な形で検出されたことである。幅約1間の道は、三の曲輪から土橋を利用し二の曲輪東中段を真っ直ぐ通り、梯子によって二の曲輪下段へと上がる。ここからは木橋を通り、直角に曲がり、城門をくぐり、更に三度直角に折れ曲がり、本曲輪搦手門へと至る構造であった。全国的にみても、完全な形で城内道が検出された事例はなく戦国期の城内構造を知る貴重な遺構と評価される。
出土物は、@城郭創築以前の遺物A奥山時代(15世紀前半から16世紀中頃)B武田時代(16世紀後半)C廃城後(江戸時代以降)の遺物が出土しているが、約8割がAの奥山時代の遺物であった。
発掘調査に併せて実施された整備事業で、礎石建物1棟、堀立柱建物1棟(井楼櫓)、城門4基、柵列2条が復元された。復元考証は、三浦正幸広島大学教授と織豊期城郭研究会が行った。なお、安全柵として本曲輪を囲む土塀、二の曲輪、三の曲輪を囲む柵列が模擬復元された。また本曲輪には管理施設が置かれている。
城内道は、位置はそのままで復元されたが、梯子、木橋については安全上の観点から現代工法によった。二重堀切を渡る木橋は遺構を保護するためと、南からの通路を確保するために設けられた新たな施設で、本来ここに位置していたものではない。
(看板資料より) |