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山梨県甲府市

尊躰寺

2013年09月01日

 
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功徳山天尊躰寺は、大永元(1521)年に武田信玄公の父・武田信虎が忠連社弁誉上人に深く帰依し、武田家の古跡に一宇の精舎を建立し真向三尊を本尊とし、弁誉上人を開山として創建された寺です。天文2(1533)年、後奈良帝より深草院功徳山天尊躰寺の勅額を賜ったことから現在でも天尊躰寺と号しています。大永元年は信虎夫人(大井夫人)が積翠寺において勝千代、のちの武田信玄公を出産した年です。当時は元柳町(現・武田三丁目)付近にあり、寺内五千余坪を擁し、隆昌を極めていましたが、武田氏滅亡後変わって甲州を領した徳川氏の甲府城築城に伴い、文禄・慶長(1592〜1614)、それまで躑躅ヶ崎の館を中心に配置されていた寺社ともに現在の地に移転し、甲府浄土5ヶ寺の一つに数えられてきました。
(パンフレット資料より)

竹松君について
武田信虎の公子竹松君が、尊躰寺に葬られており位牌には「原證院殿天誉尊躰智光童子」と記されています。「府中尊躰寺に牌子を建つ、信虎の男、名は竹松、大永3年霜月朔日、7歳にして夭」とあります。信虎の長子であり側室の子と思われます。天誉尊躰童子と号し、寺の呼称にもなっています。
(パンフレット資料より)

家康入国尊躰寺仮館処
此処は尊躰寺の古寺地で、天正年中、徳川家康が数度入国した時、仮館を構えた処です。尊躰寺の真向三尊が国民の厄難を除き、国利民福をもたらすご利益あらたかなるを聞き知った徳川家康は心から真向三尊を信仰し、国家の安穏をも計ったものです。
家康は41歳、天正10年8月より天正11年3月までを当寺に滞留され、その後一時浜松へ帰城したが、再び天正11年8月に当寺へ入山されたのも、家康がいかに真向三尊如来の帰依に厚く、また国家の安穏に心を砕いていたかを表しています。
(パンフレット資料より)


大久保長安の供養塔

猿楽師大蔵太夫の二男として生まれ、武田信玄公に仕え、武田滅亡後は、家康に用いられ甲斐の民政にあたりました。また石見、佐渡、伊豆の金山奉行などを務め、慶長6年甲府代官となり「石見検地」を実施、同12年には石見守となり国政にも参与しましたが、18年駿府にて没。卵塔は慶長19年に建立された長安の供養塔です。
(パンフレット資料より)

 



2004年08月14日

尊躰寺は、武田信虎が緑町に建てたもので、後に武田家が滅ぶ際に徳川家康が甲斐に入国して宿舎にしたところといわれている。その後浅野氏が甲府城を築城した頃に現在の地に移された。境内には大久保長安、富田武陵、山口素堂などの墓がある。
(看板資料より)


甲斐奉行 大久保長安の墓所

大久保長安石見守は、甲斐国に生まれる。初め信玄に猿楽師として仕えたが、信玄没後は大久保忠隣の庇護を受けて家康に従う関東入部後代官頭となり、のちに石見銀山、佐渡金山奉行となり、慶長6年甲府代官となる。11年には伊豆代官となる。いずれも産出金銀を激増させ幕府の財政基盤を確立した。慶長11年に石見守となり老中として国政にも参与した。その財力は役目柄並びないものであった。
(看板資料より)

 

 
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