真田信繁は、武田信玄配下の武将であった、父真田昌幸の次男、通称は源次郎、号は好白。
関ケ原の戦いでは父と共に西軍に付くも、戦いに敗れ、紀州九度山に幽閉される。14年間、蟄居生活を送り、慶長19(1614)年豊臣方に参加した。
大阪冬の陣では、難攻不落の大阪城唯一の弱点とも豊臣秀吉が危惧した、南惣構の外側に真田出丸を構築、そこで徳川方と壮絶な死闘を繰り広げた。
翌年の夏の陣で、信繁は茶臼山に本陣を置く。徳川本体と戦い、徳川家康に迫るも力尽き、越前兵に安居神社付近で討ち取られたと伝えられる。
真田信繁は、一般に「幸村」として知られる。しかし現存最後とされる慶長20年3月19日付の書簡にも「左衛門佐信繁」と署名があり、生前「幸村」と名乗ったことはなかったと考えられる。
徳川時代中期にあたる18世紀のなかばころには「幸村」の呼称が流布していた。本墓碑は、生前の確実な諱である「信繁」を採用した。
豊臣姓は秀吉が創始したもので、弟秀長や甥(のち養子)秀次ら親族のほか、毛利輝元や徳川秀忠(おそらく家康も)など有力大名も称した。
当寺は徳川時代より信繁の菩提を弔っている。信繁の四百回忌に際して、墓碑を建立する。
(看板資料より)
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