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長野県小県郡長和町

千人塚

2015年05月03日

天文12(1543)年、武田晴信(信玄)が長窪城(古町北古屋)を攻略すると、小県・佐久地方の土豪らは、長窪城の奪還を目指して腰越村(上田市腰越)に結集し、深山を経て進撃しました。一方、これを知った武田軍も長窪城から、五反田、滝ノ沢を経て進撃し、このあたりで激戦となりました。
勝敗がつかないまま両群とも兵を退きましたが、双方の戦死者は千人にも達し、これをねんごろに葬り、弔うためこの地に直径20メートル、高さ8メートルもある塚が築かれ、それ以来千人塚と呼ばれるようになったと伝承されています。
(看板資料より)

 



2007年10月07日

天文12(1543)年、武田晴信(信玄)が長窪城(古町北古屋)を攻略すると、小県・佐久地方の土豪らは、長窪城を奪還しようとして、腰越村(上田市腰越)に集結、深山を経て進撃しました。一方、これを知った武田軍も長窪城から五反田、滝ノ沢を経て進撃し、深山と長窪の村境で激戦となりました。
勝敗がつかないまま両軍兵を退きましたが、双方の戦死者は千人にも達し、これをねんごろに葬り、弔うため、この地に直径20メートル、高さ8メートルもある塚を築き供養し、それ以来「千人塚」と呼ばれるようになったと伝承されています。
しかしながら、千人もの戦死者が出る戦いならば、当時の諸記録に記載があるはずですが、この様子を伝える記録は残されておりません。かつて塚からは刀が発見されたとも伝わっていますが、おそらく千人塚は村境を示す境塚ではなかったかと推測されてます。
文献「新編長門町誌」「(旧)長門町誌」
(長和町広報2007年1月号より)


長和町と上田市の間付近に千人塚というものがあるとのことで立ち寄りました。事前調査により立岩というところの近くであることは分かっていたので立岩を目的地にして現地に向いました。しかしそれらしいものはみつからなかったため歩いていた人に聞いてみたところ、私が聞いた人はみんな千人塚のことを良く知っていて場所も教えてくれました。祠があって一本松があるからすぐに分かるとのことでした。今回一番荒れた道路でしたが途中から林道になって道路も狭くなり心細くなりました。オフロードバイクの練習場のような所まで行ってそこから先はどうしても見つけることができずあきらめかけていましたが、オフロードバイクの人に聞いてみたらすぐ近くでしたのでそこから歩いて行きました。確かに大きな松の木がありましたがこれじゃ分からないはずです。何の案内もないし本当にただ松があるだけでした。

 
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