常昌寺(先達城) |
2016年12月18日 |
享禄元(1528)年8月、武田信虎は諏訪攻略の兵を甲信国境付近に進めてきた。「神使御頭之日記」に「此年甲州武田方ト執合ニ付テ、8月22日に武田信虎堺へ出張候テ、蘿木ノ郷ノ内小東ノ新五郎屋敷ヲ城ニ取立候、同26日青柳ノ下ノシラサレ山ヲ陣場トシテ、安芸守頼満・嫡子頼隆対陣ヲ御取候テ」とあり、続いて同晦日に神戸・堺川で合戦になったことが記されている。 |
多田淡路守常昌の墓
2007年10月21日 |
享禄元(1528)年8月、武田信虎は諏訪攻略の兵を甲信国境付近に進めてきた。「神使御頭之日記」に「此年甲州武田方ト執合ニ付テ、8月22日に武田信虎堺へ出張候テ、蘿木ノ郷ノ内小東ノ新五郎屋敷ヲ城ニ取立候、同26日青柳ノ下ノシラサレ山ヲ陣場トシテ、安芸守頼満・嫡子頼隆対陣ヲ御取候テ」とあり、続いて同晦日に神戸・堺川で合戦になったことが記されている。 |
諏訪明神ノ記録ニヨレバ享禄元(1528)年8月22日蘿木ノ郷小東ノ新五郎屋敷ヲ取リ立テ城トナストアリ、信濃ニ対スル武田ノ山城デ、多田常昌ガソノ将デアッタ。現在ハ境内ニ常昌寺ガアリ、土塁ノ一部ト曲輪オヨビ常昌ノ墓碑ヲ残ス。和海常通居士位ト刻ム。昭和41年7月富士見町史跡トナル。 |
多田淡路守常昌の墓
人文社の広域道路地図(山梨県)で先達城の場所を確認してカーナビにセットして現地に向いました。立派な看板があったので場所はすぐに分かりました。説明版の横には小さな棒杭もあって先達城址と書かれていました。実はここを出て行くときにこの小さな杭にも説明が書かれていたことが分かり確認しておきました。
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