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静岡県浜松市

清瀧寺

 
2013年12月31日

本堂

天正7(1579)年9月15日岡崎次郎三郎信康が信長の口難に逢い二俣城において自刃した。この時浜松へ二俣村役人共が呼び出され、二俣には浄土宗の寺院何ヶ寺あり寺の名は何というか書き出せと仰渡しがあった。
ところが浄土宗の寺は一ヶ寺もないという、それでは庵室でもよいからという次第で、庵室のあったこの地に信康の廟所、位牌堂、其外諸堂を建立した。ここには殉死した吉良於初(初之丞)、当時二俣城主だった大久保七郎右衛門忠世、三方原で戦死した中根平左衛門正照、青木又士朗吉継の墓もある。
(看板資料より)


井戸櫓

大久保彦左衛門(忠教)の三河物語によると、元亀3年(1572)10月、武田軍は徳川方の二俣城を攻撃したが、城兵は小勢ながら天険を利用してよく防いだ。武田軍は城兵が天竜川の崖に櫓を造り、滑車に縄をかける釣瓶で水を汲んでいることを探知し、水の手を奪う戦法にでた。
井戸櫓は二俣城が廃城ののちに清瀧寺へ移築されたという。その後明治年間に改築されており、現在のものは昭和37年に再建されたものです。
(看板資料より)


岡崎三郎信康
信康は徳川家康の嫡男として、戦国時代の永禄2(1559)年3月6日、家康人質の今川家支配の駿河で誕生。母瀬名(築山御前)は関口義広の娘で、今川義元の姪に当たる。信康は永禄10(1567)年5月、信長の娘徳姫(五徳)と結婚。共に9歳。今川家の血を引く築山御前と、今川を滅ぼした織田の娘の嫡男舅の確執と、若夫婦不仲から、徳姫は天正7(1579)年父信長への12箇条の手紙の中で築山御前が武田と内通と書かれ、それが原因で信長は信康の切腹、築山御前の殺害を要求、同年9月15日、信康は幽閉先の二俣で切腹。介錯役の服部半蔵正成は何としても、刀を向けられず、検視の天方山城守通綱が介錯したと伝えられる。享
年21歳。
信康の類い稀な能力の、将来を恐れた信長厳命と云う通説のほか諸説はあるが、安泰・太平の世を築いた家康草創の頃の、信康夭折は徳川三百年の礎となった運命の若武者であったと言うことができるのではないか。
(看板資料より)

徳川信康の墓 (信康廟)


大久保忠世、中根平左衛門正照、青木又四郎吉継の墓



2012年02月12日

本堂

天正7(1579)年9月15日岡崎次郎三郎信康が信長の口難に逢い二俣城において自刃した。この時浜松へ二俣村役人共が呼び出され、二俣には浄土宗の寺院何ヶ寺あり寺の名は何というか書き出せと仰渡しがあった。
ところが浄土宗の寺は一ヶ寺もないという、それでは庵室でもよいからという次第で、庵室のあったこの地に信康の廟所、位牌堂、其外諸堂を建立した。ここには殉死した吉良於初(初之丞)、当時二俣城主だった大久保七郎右衛門忠世、三方原で戦死した中根平左衛門正照、青木又士朗吉継の墓もある。
(看板資料より)


徳川信康の墓 (信康廟)

以前に一度来たことがありましたが、今回再び立ち寄ってみました。ここには二俣城の水汲み櫓と徳川信康の墓があるのです。
前回来た時も信康廟は閉まっていて中に入ることができませんでしたが、今回も閉まっていました。しかし私も昔に較べて図々しくなったのか、お寺の人に了解をもらって信康廟の中に入ることができました。最初の門を開けるとすぐ右側に大久保忠世、中根平左衛門正照、青木又四郎吉継の墓がありました。先に進むと左側に歴代住職の墓のようなものがありました。そして奥には更に閉ざされた扉があってそれを開けたら信康廟がありました。大きな墓石で建物に囲まれていました。更に扉を開けてみると大きな墓石がよく確認できました。
信玄も家康もその嫡男を殺さなければならなかったという共通点を再確認したのでした。


信康堂

岡崎三郎信康
信康は徳川家康の嫡男として、戦国時代の永禄2(1559)年3月6日、家康人質の今川家支配の駿河で誕生。母瀬名(築山御前)は関口義広の娘で、今川義元の姪に当たる。信康は永禄10(1567)年5月、信長の娘徳姫(五徳)と結婚。共に9歳。今川家の血を引く築山御前と、今川を滅ぼした織田の娘の嫡男舅の確執と、若夫婦不仲から、徳姫は天正7(1579)年父信長への12箇条の手紙の中で築山御前が武田と内通と書かれ、それが原因で信長は信康の切腹、築山御前の殺害を要求、同年9月15日、信康は幽閉先の二俣で切腹。介錯役の服部半蔵正成は何としても、刀を向けられず、検視の天方山城守通綱が介錯したと伝えられる。享
年21歳。
信康の類い稀な能力の、将来を恐れた信長厳命と云う通説のほか諸説はあるが、安泰・太平の世を築いた家康草創の頃の、信康夭折は徳川三百年の礎となった運命の若武者であったと言うことができるのではないか。
(看板資料より)

 



2001年08月12日

当寺は京都地恩院の末寺、本尊は阿弥陀如来。天正7年(1579)9月15日岡崎次郎三郎信康(徳川家嫡男)が二俣城において生害。時に21歳。遺骸を当寺に葬り、法名を騰雲院殿前三州達岩善通大禅定門といいます。
天正9年徳川家康は、当寺に来臨し、清水の湧き出るのを見て、寺名を清瀧寺と名付け、信康に清瀧寺殿とおくり名をしました。ここは信康の他に殉死した吉良於初、当時の二俣城主大久保忠世、三方原で討死した中根平左衛門正照、青木又四郎吉継らの墓もあります。(看板資料より)


井戸櫓

大久保彦左衛門(忠教)の三河物語によると、元亀3年(1572)10月、武田軍は徳川方の二俣城を攻撃したが、城兵は小勢ながら天険を利用してよく防いだ。武田軍は城兵が天竜川の崖に櫓を造り、滑車に縄をかける釣瓶で水を汲んでいることを探知し、水の手を奪う戦法にでた。
井戸櫓は二俣城が廃城ののちに清瀧寺へ移築されたという。その後明治年間に改築されており、現在のものは昭和37年に再建されたものです。
(看板資料より)


信康廟

大久保忠世、中根平左衛門正照、
青木又四郎吉継の墓

 
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