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    長野県飯島町

西岸寺

2015年10月12日

臨照山 西岸寺
この寺は弘長元(1261)年北條時頼が帰依した中国から来朝の大覚禅師によって開山された。二世大通禅師は寺の基礎を固め大覚禅師の尊像を開山堂に安置し初祖の偉業を称えた。六世大徹和尚は至鈍置文を書き残された中興の祖であるがその代康安元(1361)年に臨照山西岸寺と称え本尊には宝冠無量寺佛を安置して七堂伽藍を造営し応安6年諸山に列せられ一本山となった。
天正10(1582)年織田信長が飯島城を攻めた際、この寺も兵火の厄にあい、弁天堂水月庵を残して久しくその盛大を誇った七堂伽藍も灰塵に帰した。その後いく度かの復興に努め、爾来京都妙心寺派に改められた。慶長6年には徳川幕府から28石の朱印を受けた。明治19年、昭和34年の2回にわたり火災にあい、本堂、開山堂等を焼失したが、本堂は38年、開山堂、位牌堂、納骨堂は41年に再建され現在に至っている。
(看板資料より)

 



2008年11月02日

臨照山 西岸寺
この寺は弘長元(1261)年北條時頼が帰依した中国から来朝の大覚禅師によって開山された。二世大通禅師は寺の基礎を固め大覚禅師の尊像を開山堂に安置し初祖の偉業を称えた。六世大徹和尚は至鈍置文を書き残された中興の祖であるがその代康安元(1361)年に臨照山西岸寺と称え本尊には宝冠無量寺佛を安置して七堂伽藍を造営し応安6年諸山に列せられ一本山となった。
天正10(1582)年織田信長が飯島城を攻めた際、この寺も兵火の厄にあい、弁天堂水月庵を残して久しくその盛大を誇った七堂伽藍も灰塵に帰した。その後いく度かの復興に努め、爾来京都妙心寺派に改められた。慶長6年には徳川幕府から28石の朱印を受けた。明治19年、昭和34年の2回にわたり火災にあい、本堂、開山堂等を焼失したが、本堂は38年、開山堂、位牌堂、納骨堂は41年に再建され現在に至っている。
(看板資料より)

織田信長が攻めてきた時に飯島城が攻撃された際に被害にあっているとのことで今回立ち寄ってみました。参道を始め、境内はきれいに整備されていました。誰にも会うことができず詳しい話を聞くことはできませんでした。


飯島町名勝 西岸寺参道

参道両側の樹齢を重ねた黒松の並木は、寺院の参道として格調を高めている。西岸寺の九江和尚の日記によれば、安永2(1773)年に「大門を北に寄せ田に致し…」とあり、この時に現在の参道を開いて松を植えたと考えられる。
(説明文より)


飯島城

 

 
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