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千葉県富津市

佐貫城


2009年09月21日

佐貫城(亀城)は室町時代にさかのぼり文安年間に長尾氏、応永年間に武田氏の築城説あり。その後里見、武田、朝倉、加藤、大河内の諸氏城主となったといわれる。
(看板資料より)

三の丸

『千葉県史料』中世篇・諸家文書によると、佐貫城の近くにある鶴峯八幡神社(富津市八幡)の永正4(1507)年の棟札銘に、同社再建に関連のある武田信嗣・信秋の名がみえている。
天文6(1537)年になると真里谷(武田)信隆が後北条氏に応じて佐貫城、峰上城などから兵を挙げたが、これに反撃した小弓御所足利義明・里見義堯によって逆に落城してしまう。つぎに翌7年、第一次国府台合戦(市川市)が行われ、北条氏綱・氏康軍の勝利にとなり、里見軍は敗走している。
同8年、佐貫城主武田義信が六所神社(富津市寺尾)を再建し、さらに義信の父全芳(真里谷)が、白山神社(富津市長崎)に同11年に鰐口を寄進している。この頃までは武田氏は後北条氏と連携をとり、里見氏と攻防をくり返していたようである。その後、里見義堯は久留里城主に、子の義弘は佐貫城主となったと思われる。同23年に後北条氏が久留里城(君津市)を攻撃するが、義堯・義弘はこれを撃退している。この頃は、上総国佐貫城・久留里城を結んだ線が里見氏の領地の中枢部ではなかったと考えられる。そして弘治2(1556)年には、里見義堯が佐貫城の城主となり、里見の本拠としている。
(日本城郭大系より)

二の丸

場所は館山道のすぐ近くでした。入口がなかなか見つからず苦労しました。入口には説明板があり、その先が三の丸になっていました。あまり歩くことなく二の丸にたどり着き、その先に本丸があり、本丸の手前に空掘があって本丸には土橋があってそこを歩いて本丸に行きました。空掘は思ったより大きなものでした。本丸の先には展望台もありました。

空掘

当城は峰上・造海城とともに、真里谷武田氏の一拠点として建設されていたとされ、その後、里見氏(義堯・義弘・梅王丸)の拠点城郭に移行している。その過程では、朝倉氏など北条氏の家臣が居城したという伝えや、小弓公方の足利義氏が御座所としていたなど、城主も幾度となく交替している。このことは当城周辺が重要な要衝であることを物語っている。近世に移ると、徳川譜代の内藤家長が城主となり、その後、松平氏、別系松平氏、安部氏が城主に就き、明治初年に廃城となっている。
(図説 房総の城郭より)

 

 
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