峰上城 |
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環神社
築城年代は、本丸の最高所に祀られていた環神社の鰐口に「峯上之城厂利四天 天文2(1533)年9月3日」とあることから、この年代のものと考えられる。 |
溜池
狭い道を登っていき、途中一度でまわり切ることができず、切り返しながら登って行きました。上には住宅が2軒あって奥の方のお宅である石井さんにお話を聞こうとしたところ、奥の畑に石井さんのお父さんがいることを教えてくれました。畑の方に行ってみると石井さんがいて話を聞いてみたら、城の案内をしてくれました。中城、本城と進んで行きました。千葉の城跡に共通な竹薮でした。石井さんの話によると夜にイノシシが出没して土に埋まっている竹の子を全部食べてしまうのだそうです。一番奥の環神社に行ったときに、摩利支天信仰についての話も聞きました。摩利支天はイノシシに乗っているとのことでしたが、山口県や愛知県の山本勘助生誕の地といわれているところでもイノシシ退治の名人山本勘助伝説があり、山本勘助が持っていた摩利支天がイノシシに乗っているという話を聞いたばかりだったので大変興味深いお話でした。 |
尾崎郭
また、日本城郭大系にのっていた地図に記載されていた溜池や尾崎郭なども実際に存在しました。驚いたのは殿井戸が現在も生活のために使用されていることでした。井戸は断崖絶壁の中腹にあって、岩は清水が染み出して濡れていました。 |
殿井戸
真里谷武田氏によって、西上総の経営拠点として15世紀後半から16世紀初頭の段階で築かれた主要城郭である。天文期を中心とした記録「快元僧都記」によると、享祿5(1532)年、北条氏綱の音頭による鎌倉鶴岡八幡宮造営に際し、峰上の古木採取等の協力のついて小弓公方足利義明を介して武田恕鑑・里見氏双方に働きかけたところ、双方ともこの要請を断っている。これに対し義明は兵を出して武田氏を攻め、両者が敵対していることが鮮明となっている。しかし、天文4(1535)年以降には一転して武田氏は北条氏と結び、八幡宮造営に協力して材木を供給している。
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