真田氏について
真田氏は信濃国小県郡真田町を発祥の地とし、豪族滋野氏の一族であるといわれている。天文年間、真田幸隆が武田信玄につかえ、北信濃・上州攻略に参加し勢力を伸ばした。幸隆の長男信綱・二男昌輝は長篠の戦で戦死したため、三男昌幸が真田家をついで上田城を築き戦国大名の地位を確立した。
慶長5年、関ヶ原の戦で昌幸と二男信繁(幸村)は西軍、長男信之は東軍に分かれて戦い、西軍敗北により昌幸・信繁は九度山に幽閉された。昌幸はここに没し、信繁は大坂冬の陣・夏の陣に華々しく戦い討死した。一方信之は、父の旧領上田を安堵されたが、元和8年に松代に移封となり10万石を領した。
以後、松代藩は真田氏10代、250年間、信州の雄藩として北信濃を治め、明治維新を迎えた。
(館内展示より)
真田宝物館
旧松代藩主・真田家から長野市に寄贈された大名道具をコレクションとして、公開・調査研究が行われています。展示室では、大名道具の使用方法を尊重する展示を行っています。また、調査研究の報告をかねたテーマ展示のコーナーもあります。
(関内展示より)
松代城と城下町
松代城は武田信玄によって造営されたといわれています。その根拠として、いわゆる三日月堀があります。二の丸と三の丸の間、南門の正面におかれたこの堀は、武田関係の城郭によく見られるものです。松代城には武田の頃から江戸時代を通じて天守閣がつくられませんでした。そのかわりに、本丸の中に藩主の御殿がつくられました。石垣は各時代に積まれており、一番古いもので、城北西の石垣が戦国時代末期のものです。
城下町は武士ばかりでなく、商工業者や寺社を集めた幅広い性格の都市でした。松代の場合、商工業者が住む地域を町八町と呼び、八つの町がありました。
(関内展示より) |