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岐阜県高山市

尾崎城

2006年05月04日

平成6年から3ヵ年にわたり行なわれた尾崎城の発掘結果は、全国的にも大きな関心を集めた。江馬氏下館跡の発掘成果とあわせて、京や鎌倉から遠く離れた中世の飛騨に、想像を越える遺物が出てきた。江馬氏下館跡では「飛騨の花の御所」と形容される。庭園をともなった守護に準ずるクラスの武士の館跡が、尾崎城では、上層階級のステイタスシンボルとされた中国製の青白磁が出土した。ともに14、15世紀に最盛期を迎えるという古い城館跡である。
伝承では、戦国時代に塩屋筑前守秋貞が築いたとされ、金の鶏と莫大な軍資金が埋められている金鶏伝説にも彩られて、親しまれてきた。明治39年には二の丸付近で45キロ近い中国銭が掘り出されている。
しかし発掘の結果は、従来語り継がれてきた尾崎城の歴史とはずいぶん異なるものだった。たしかに表面の縄張り遺構は、戦国末期の天正期(1573〜92)の特徴を備えていた。けれども、出土した三千点近い陶磁器片は15世紀前半のものが中心で、塩屋秋貞が構築したとされる16世紀前半のものはほとんどなかった。
また陶磁器の中には、表面に強い火力を受けた痕のあるものが五百点ほどあり、その時期は15世紀半ば以降と推測されている。応仁・文明の乱が飛騨の地にも及んでおり、小八賀も戦乱の世に巻き込まれていたことを示す古文書も残されている。火力を受けた陶磁器類は、その時の戦火で建物が焼失したことを示しているのかもしれない。
建築物の性格、その主、地元との関係、富をささえた経済的な基盤等々、依然多くの謎に包まれたままの重要な遺跡である。
(看板資料より)

掘切

飛騨地方の他の城と同様、武田の部将山県昌景に落とされたとのことでしたが、詳細について確認するために麓の高山市丹生川支所にて村史を見せてもらいました。しかしこの城跡のことについてはほとんど触れられておらず分かりませんでした。役場の人もよく分からないようでした。
きれいな公園に整備されていて地元の人々の憩いの場になっているようでした。

 

 
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