小谷城 |
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番所
小谷城の主要部への入口に位置する。通常、番所があった所といわれる。登城道に面して南北に細長く石垣を組み、周辺には腰曲輪が点在する。北側の石垣上に一段高い平地がある。 |
御茶屋
小谷城主郭部最先端の曲輪である。中央にあるL型の土塁が特徴であるが、その内部には小規模な御殿があったと思われる。 |
御馬屋跡
御馬屋 御馬屋 |
首据石
黒金門跡の手前にあり、天文2(1533)年1月、初代亮政は六角氏の合戦の際、家臣の今井秀信が敵方に内通していたことを知り神照寺に誘殺し首をここにさらしたと伝えられる。 |
黒金門跡
大広間に設けられた重要な門である。「黒金門」と呼ばれているところから、鉄を打ち付けた扉であったと考えられる。 |
浅井氏及家臣供養塔
桜の馬場
大広間黒金門の南に存在した曲輪。南北に長い曲輪で、東西2段で構成される。西側の細長い曲輪は特徴的でその南西端は信長の本陣があった虎御前山を見張る最適の地であった。また、馬洗い池周辺は石垣が突出しており、その手前には今井秀信の首を据えたという首据石が存在する。 |
大広間跡
別名「千畳敷」と呼ばれ長さ約85m、幅約35mで前面に高さ約4mの石垣が積まれている。大広間跡は建物跡が検出されている他、石組みの井戸跡や蔵跡が確認されている。 |
本丸・大広間 |
本丸跡
江戸時代中期の小谷城跡絵図に「天守共 鐘丸共」と記されており、鐘丸がその機能を表していると考えられる。構造については不明であるが、何層かの建物であったことが想定される。 |
大堀切
本丸跡の北にある大規模な堀跡で尾根を大きく削ってある。番所跡から本丸跡までとその上を区切るためのものである。 |
中丸
南北3段から成り、最上段に刀洗池がある。この駅の縁を通って、上段の京極丸につながる。3段目と2段目の間や1段目の南側正面には小規模な石垣が現存し、この曲輪も基本的には石垣で固められていたと見られる。虎口を中央に設置しているのは、中丸より上部の郭だけで、ここより下の郭は敵がまっすぐ突き抜けられないよう側面から入る構造になっている。本丸との間に土木工事によって造られた大堀切がある。清水谷側には御局屋敷と通称される腰曲輪が附属する。 |
刀洗池
京極丸
浅井氏が守護京極氏の居所として用意した曲輪といわれる。南北4段の構造を持ち、清水谷側(西側)に桝形虎口がある大きな曲輪を附属する。この虎口は清水谷から登る「水ノ手」につながるが、小谷落城に際に秀吉が攻め上がった道である。須賀谷側(東側)に造られた高さ3mほどの土塁は小谷城最大の規模を誇る。 |
小丸
二代目城主久政が引退した後に居住した所と考えられている。天正元(1573)年8月27日に京極丸より羽柴秀吉に攻められ、鶴松太夫の介錯により49歳を一期として自刃した。 |
山王丸
標高約400mに位置する小谷城の詰めの丸。南面に馬出しを配し、鎌刃城と同形態の石垣で固められた虎口を二重に備える。南側の虎口は、破城の痕跡が現在も明瞭に残り、石垣が散乱して登山の障害となっている。中央の曲輪には山王社を祀っていた。 |
赤尾屋敷
浅井氏の重臣赤尾氏の屋敷跡と伝えられている。家臣の屋敷では最も本丸に近く、また浅井長政最後の地となったことから、赤尾氏の浅井家に置ける重臣としての地位がうかがわれる。 |
浅井長政自刃の地
天正元(1573)年9月1日最後の攻撃のため黒金門から討って出た長政は信長の兵に攻められ、本丸(鐘ヶ丸)に帰ることができず、やむなく重臣赤尾美作守の屋敷に入り自刃した。享年29歳であった。
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