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長野県岡谷市

小坂観音院

2014年05月18日

観音院由来の御尊像は、漁夫の網により諏訪湖より拾い揚げこの高台に安置し一宇に祀ったと言います。この像は十一面観音で湖水との縁で魚籠(通称ビク)の上に鎮座しこれが観音院の起源であると言われています。永正3(1506)年の作で、中世(室町時代)の仏像であることが分かっています。かつて観音院は諏訪大社の社坊でありましたが、中世諏訪藩主祈願所となり十一面観音の御本尊を中心に、脇立には右に不動明王、左に毘沙門天があります。
明治4(1871)年新義真言宗醍醐派、明治44(1911)年新義真言宗智山派の公称寺院となり現在に至っています。
伝説に「弘法大師」空海和尚が今から1200年前に衆生済度のため、当地に来て尊像を拝礼し、庭にビャクシンを植えられたと言われ、観音院のお宝木として現存しています。
堂宇は、二代諏訪忠澄が寛永21(1644)年に、改造、更に四代諏訪忠虎が正徳5(1715)年に再建しました。古くから諏訪八景鎌倉街道を往来する信者の唯一の祈願所でありました。
さかのぼれば、諏訪大社の歴史「」諏訪大明神絵詞を執筆した小坂円忠(諏訪円忠)が、鎌倉時代末頃(1330年)観音院の素晴しい風景に憧れ、この地に住居を構え入山し、大進円忠と号し観音院に帰依したとあります。境内には西国33ヶ所の札所に数えられる観音信仰の霊場として石仏が鎮座しています。
鐘楼は元禄15(1702)年に建立されましたが戦争により供出、現在の梵鐘は昭和24(1949)年に新調され小坂観音院の晩鐘として復活しました。
作家井上靖の著書「風林火山」の主人公諏訪頼重の一女由布姫は、戦国の世、時の天下を制した甲斐国武将武田信玄の側室となり曰く因縁の末一男勝頼を生み由布姫はこの観音院にて暮らした。
信玄との憩いの住家でありましたが病のため25歳の若さでこの世を去りました。戦国時代の女性の悲哀を哀れみ、昭和38(1963)年境内森に囲まれた高台に供養塔を建立しました。

境内には、弘法大師像、釈迦三尊像、本堂には室町時代の作と推測される「びんずる尊」があり、この像をなでると万病が治るという信仰があります。また入口にあるサクラの大木の並木は珍しく、樹齢400〜500年以上と言われています。
(看板資料より)

岡谷市天然記念物
小坂観音院寺叢
小坂観音院は、古くから人々に深く信仰されてきた寺院であるので、全山神聖な所とされ、荘厳さを保つため草木の伐採をせずに自然の状態を保ってきた。多くのカエデ・ナラ類が自生している。全山には約190本の古木があり、サワラ並木は樹齢400年以上である。
(看板資料より)

小坂観音院ブッポウソウ繁殖地
ブッポウソウは、東南アジアからの渡り鳥で、個体数が少なく、神社仏閣等の古木に巣づくりするという特性があり、繁殖地は全国的にも数少ない。頭・風切羽・尾羽の大部分は黒色、その他は美しい青緑色で嘴・脚は赤い。当院のサワラに昭和50年頃から、5月中旬になると飛来し、育雛して立秋頃飛び去っている。霊鳥として名高い。
(看板資料より)


武田信玄公側室 諏訪御料人供養之塔

新田次郎先生命名:湖衣姫
井上靖先生命名:由布姫

由布姫由来記
武田信玄は、兵法書「孫子」の中にしるされている「風林火山」の軍旗を陣頭に、群雄の時代を風靡したすぐれた武将の一人であります。その信玄の側室として美貌と情愛の深さで知られ、信玄にもっとも寵愛され信玄の四男勝頼を生んだのが諏訪頼重の娘「由衣姫」であります。
勝頼は父信玄没(天正元年 1573年)のあとを受けたが、三河の長篠での一戦で破れたのち新府城を築いて新興をはかったが、一族、家臣が寝返りをうち勝頼にそむいたので、その攻撃に耐えられず、父信玄以来の本拠甲府を捨て、天正十(1582)年3月11日天目山の麓、田野にて我が子信勝をはじめ、一族51人と共に自刃をし、ここに中部地方の大半を領してその盛強を天下にうたわれた武田氏は滅亡しました。
此の武将の母「由衣姫」は15歳にして信玄の側室になり勝頼を産んだのちは諏訪にかえり、病の身となり此の観音の森で静かな日々を送り、弘治元(1555)年齢25歳にして、当時10歳の愛児勝頼を残して早逝されたと、井上靖先生の「風林火山」に著されており、また地元のお年寄りも子供の頃此の墓のまわりを、お姫様、お姫様と口ずさみながら遊んだといわれています。
この観音堂は「由衣姫」が毎日ながめたであろう高島城を望み、また信玄の石棺が沈められたといわれている湖底を眼前にしていて「由衣姫」にはまことにゆかりが深く、ここにある姫の墓も戦国の世の一つの悲哀を物語っています。
(石碑記載文章より:一部修正しています)


観音堂

正徳5(1715)年4月、諏訪安芸守忠虎候の御造営
木造十一面観音坐像
本尊の十一面観音坐像は、伝承のいわれにより、今もなおビクの上に安置され、観音堂内陣の厨子の中に、秘仏として人々の信仰の対象となっている。胎内銘によると永正3(1506)年の作とある。
木造賓頭盧尊者坐像
賓頭盧尊者坐像は、観音堂の外陣に安置されており、彫りも口も鋭い。本尊と同じく室町時代の作である。
(案内塔記載文章より)


鐘楼

鐘楼堂は元禄15(1702)年に建立され、梵鐘も同年に造られましたが戦争の際に供出してしまったため、現在の梵鐘は昭和24(1949)年に再鋳造されたものである。
(看板資料より)


天然記念物 柏槇

樹齢 1200年以上と推定
目通り 5.5メートルm
高さ 27メートル
開帳 20メートル
伝承
空海和尚が衆生済度のため、この地にこられ、護摩供養をなさり、そのとき植えたものと伝えられている。
(看板資料より)


小坂観音院から望む諏訪湖と八ヶ岳

信玄公にまつわる伝承
武田信玄公は死後自らの遺言により石棺に納められ観音院沖の諏訪湖に葬られたとの言い伝えがある。
(看板資料より)

小坂観音院から望む諏訪湖



2005年09月11日

岡谷市天然記念物
小坂観音院寺叢
小坂観音院は、古くから人々に深く信仰されてきた寺院であるので、全山神聖な所とされ、荘厳さを保つため草木の伐採をせずに自然の状態を保ってきた。多くのカエデ・ナラ類が自生している。全山には約190本の古木があり、サワラ並木は樹齢400年以上である。
(看板資料より)

小坂観音院ブッポウソウ繁殖地
ブッポウソウは、東南アジアからの渡り鳥で、個体数が少なく、神社仏閣等の古木に巣づくりするという特性があり、繁殖地は全国的にも数少ない。頭・風切羽・尾羽の大部分は黒色、その他は美しい青緑色で嘴・脚は赤い。当院のサワラに昭和50年頃から、5月中旬になると飛来し、育雛して立秋頃飛び去っている。霊鳥として名高い。
(看板資料より)

 


武田信玄公側室 諏訪御料人供養之塔

新田次郎先生命名:湖衣姫
井上靖先生命名:由布姫

由布姫由来記
武田信玄は、兵法書「孫子」の中にしるされている「風林火山」の軍旗を陣頭に、群雄の時代を風靡したすぐれた武将の一人であります。その信玄の側室として美貌と情愛の深さで知られ、信玄にもっとも寵愛され信玄の四男勝頼を生んだのが諏訪頼重の娘「由衣姫」であります。
勝頼は父信玄没(天正元年 1573年)のあとを受けたが、三河の長篠での一戦で破れたのち新府城を築いて新興をはかったが、一族、家臣が寝返りをうち勝頼にそむいたので、その攻撃に耐えられず、父信玄以来の本拠甲府を捨て、天正十(1582)年3月11日天目山の麓、田野にて我が子信勝をはじめ、一族51人と共に自刃をし、ここに中部地方の大半を領してその盛強を天下にうたわれた武田氏は滅亡しました。
此の武将の母「由衣姫」は15歳にして信玄の側室になり勝頼を産んだのちは諏訪にかえり、病の身となり此の観音の森で静かな日々を送り、弘治元(1555)年齢25歳にして、当時10歳の愛児勝頼を残して早逝されたと、井上靖先生の「風林火山」に著されており、また地元のお年寄りも子供の頃此の墓のまわりを、お姫様、お姫様と口ずさみながら遊んだといわれています。
この観音堂は「由衣姫」が毎日ながめたであろう高島城を望み、また信玄の石棺が沈められたといわれている湖底を眼前にしていて「由衣姫」にはまことにゆかりが深く、ここにある姫の墓も戦国の世の一つの悲哀を物語っています。
(石碑記載文章より:一部修正しています)

平成19(2007)年のNHK大河ドラマが井上靖の「風林火山」に決まったとのことで、早速岡谷の小坂観音院に行ってきました。風林火山は既に映画化されており何度も見たことがあります。主演の山本勘助役は三船敏郎、武田信玄役は萬屋錦之助、上杉謙信役は石原裕次郎、武田信繁役は田村正和、由布姫役は佐久間良子でした。映画では由布姫が病死し、その葬式の際に小坂観音院という名前が出てきていたのでその名前だけはよく知っていました。しかし映画では「こさかかんのんいん」といっていましたが、現地に来てみると小坂観音院は「おさかかんのんいん」と呼ぶことが分かりました。
一通り境内を散策した後、住職と思われる方と話す機会がありました。それによると墓は高遠の建福寺にあり、小坂観音院の境内にある諏訪御料人供養之塔というのは、諏訪御料人の墓ではなくて文字通り供養塔とのことだそうです。小説風林火山では由布姫は勝頼を産んだ後、諏訪に戻ってこの小坂観音院ですごしていたとのことでしたが、この時聞いた話では多分現在の本堂あたりだったのではないかとのことでした。また、後日諏訪御料人に関する資料を送って頂けるとのことでした。


鐘楼

元禄15(1702)年建立


観音堂

正徳5(1715)年4月、諏訪安芸守忠虎候の御造営

木造十一面観音坐像
本尊の十一面観音坐像は、伝承のいわれにより、今もなおビクの上に安置され、観音堂内陣の厨子の中に、秘仏として人々の信仰の対象となっている。胎内銘によると永正3(1506)年の作とある。
木造賓頭盧尊者坐像
賓頭盧尊者坐像は、観音堂の外陣に安置されており、彫りも口も鋭い。本尊と同じく室町時代の作である。
(案内塔記載文章より)


天然記念物 柏槇

樹齢 1200年以上と推定
目通り 5.5メートルm
高さ 27メートル
開帳 20メートル
伝承
空海和尚が衆生済度のため、この地にこられ、護摩供養をなさり、そのとき植えたものと伝えられている。
(看板資料より)


高島城に対面している表門


小坂観音院から望む諏訪湖

信玄公にまつわる伝承
武田信玄公は死後自らの遺言により石棺に納められ観音院沖の諏訪湖に葬られたとの言い伝えがある。
(看板資料より)

 

 
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