大倉城 |
2016年04月30日 |
本郭(主郭)
当城についての文献は、弘治3(1557)年に葛山城が武田方によって落城させられた際、「島津方も大蔵之地へ先づもつて相移られ候」とあるのをもって初見とするが、この文言から大倉城が島津貞忠によって掌握されていたことがわかる。 |
山城の縄張りは三つの郭群によって構成されているが、各郭とも比較的大きな方形単郭の内部を小段差で三つに区分し、その北側に方形単郭の腰郭が付属しているという同一の構造計画に基づいて造成されていることが知られている。しかも本郭・二の郭・三の郭はいずれも大堀切と土塁とによって明確に区分されており、おのおのの郭群の独立性は極めて高い。特に三の郭から二の郭への間は二本の堀切と土塁とがあり、比高15mにも及ぶ壁面をよじのぼらなければならず、防備は固い。また各郭群に付属していた北側の腰郭にはいずれも石組の崩れた窪地がみられる。このような大倉城の縄張りの統一性は、織田勢による大倉城の占拠に伴う修築によるのではないかと推測される。 |
本郭からの眺め
本郭のすぐ下にある井戸郭
大堀切
二の堀
二の堀
長野市指定史跡 大倉城跡 |
二の郭
三の郭
一の堀
鎌倉時代、信濃国守護小笠原長清が築城し、その子大倉与一長澄が居住したと伝えられる。戦国時代は、島津氏の領有となり、その本拠である長沼城(館・南方約5km・長野市穂保)の出城としての役割を担っていた。その後廃城となったが、天正10(1582)年4月、織田信長の武将森長可の北信濃侵攻に対して一揆が蜂起し、女、子供1200余名が虐殺されるという悲劇の舞台となった。 |
一の堀
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長野市指定史跡 大倉城跡 |
ここはたどり着くのに苦労しました。現地への案内板は早い時期から見つけていたのですが、途中関連史跡である大倉与一長澄(長隆)の墓を見つけてしまいそこに寄ってから地元の人に道を尋ねながら現地に向かいました。農作業をしていた人に場所を聞いたら、こんな大きな車では入っていけない!と言われてしまいました。大倉城へのルートはいくつかあるようでしたが、大倉城跡牢場口から行くようにアドバイスを受けました。言われたように行ってみると確かに立派な看板がありました。そこに車を止めて歩いて行きました。確かに狭くて危なそうな道でしたが通れないことはないと思います。少し登っていくと道が二つに分かれてしまいどちらが正しいのか悩みましたが左側に進んでみると大倉城跡牢場口の看板を発見することができました。案内板が指し示す方向へ向かって歩き始めましたがなぜかどんどん下っていきました。最初の郭?らしきところが本郭か!と思ってそこから引き返そうとしてしまいましたが、思い切って更に先に進んでいきました。途中何度も深い掘り切りを超えて行きました。堀が深いのでロープが張られていました。井戸郭の次が本郭でした。祠があって風林火山の旗がなびいていました。また落城400年祭の石碑もありました。記帳ノートが置いてあったので読んでから私も記載させて頂きました。本郭からは麓の町の様子を見ることができ、素晴らしい景色でした。更にそのまま進むと大手口の方に出られそうでしたが、車を置いて来たところに戻るのが大変そうでしたので本郭から見えた二の丸の写真だけを撮影して、来た道を引き返してきました。 |
大倉城 |
大倉城 井戸郭
大倉城 二の郭