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長野県長野市

大倉城

2016年04月30日

本郭(主郭)

当城についての文献は、弘治3(1557)年に葛山城が武田方によって落城させられた際、「島津方も大蔵之地へ先づもつて相移られ候」とあるのをもって初見とするが、この文言から大倉城が島津貞忠によって掌握されていたことがわかる。
その後、永禄年間に武田氏による善光寺平支配によって長沼城が武田方の手に帰すると、島津氏はこれらの諸城を放棄して上杉氏を頼って越後に奔った。そして当城も荒廃の一途をたどった。
当城が再び歴史上に姿を現すのは天正10年のことである。すなわちこの年の3月織田信長の信濃入部と武田氏の滅亡の結果、森長可による川中島四郡支配が成立したが、翌4月にはその支配に反対する土豪・地侍層による善光寺一揆が蜂起し、飯山城を占拠し長沼城をも攻撃して、織田方による川中島四郡支配の中枢を麻痺させるに至った。芋川親正を中心とした一揆は上杉景勝と結び、大倉古城を臨戦的に再建して籠城したのである。
やがて織田方は反撃に転じ、飯山・長沼を確保し、大倉城を乗っ取り、女・童をも千余切り捨てたといわれる。更に山中をも探索し人質をとって百姓の環従を図ったともいわれている。
(日本城郭体系より)

山城の縄張りは三つの郭群によって構成されているが、各郭とも比較的大きな方形単郭の内部を小段差で三つに区分し、その北側に方形単郭の腰郭が付属しているという同一の構造計画に基づいて造成されていることが知られている。しかも本郭・二の郭・三の郭はいずれも大堀切と土塁とによって明確に区分されており、おのおのの郭群の独立性は極めて高い。特に三の郭から二の郭への間は二本の堀切と土塁とがあり、比高15mにも及ぶ壁面をよじのぼらなければならず、防備は固い。また各郭群に付属していた北側の腰郭にはいずれも石組の崩れた窪地がみられる。このような大倉城の縄張りの統一性は、織田勢による大倉城の占拠に伴う修築によるのではないかと推測される。
(日本城郭体系より)

本郭からの眺め

本郭のすぐ下にある井戸郭

大堀切

二の堀

二の堀

長野市指定史跡 大倉城跡
大倉の地は大倉財閥で知られる大倉氏先祖発祥の地とされており、大倉村誌によれば、大倉城は鎌倉時代の文治元(1185)年に信濃守護に任じられた小笠原長清が北信濃防備のために築き、九男与市長澄が建久年間(1190〜98)に大倉へ移り住んで大倉氏を名乗り、代々住したと伝承されています。
「金沢文庫文書」によると、鎌倉時代の元弘元(1331)年当時、長澄の孫にあたる弥四郎隆綱と見られる人物が大倉にいたことは分かっていますが、当時の大倉は武蔵国金沢称名寺の所領とされていました。堅固な山城として現存する大倉城の形が実際に整ったのは戦国時代の永正10(1513)年頃、高梨政頼との抗争で大倉の地を得た島津貞忠の手によるものでしょう。
貞忠の孫にあたる忠直は、その後川中島の戦いでは上杉方に味方し、最後まで北信濃に踏みとどまって武田信玄の侵攻に抵抗したため、大倉城を拠点とする豊野から牟礼にかけての一帯は、武田方から「島津堺」あるいは「敵国堺」と呼ばれました。川中島合戦後は廃城となりましたが、天正10(1582)年、武田氏に代わって北信濃に侵攻した森長可に対して芋川親正が一揆を起こし、大倉古城を修築し篭城、激戦の末落城し女子ども1000余人が虐殺されるという悲劇の舞台となりました。落城後、一揆再発防止のため、長可の命により石垣等が破壊されました。
(看板資料より)

二の郭

三の郭

一の堀

鎌倉時代、信濃国守護小笠原長清が築城し、その子大倉与一長澄が居住したと伝えられる。戦国時代は、島津氏の領有となり、その本拠である長沼城(館・南方約5km・長野市穂保)の出城としての役割を担っていた。その後廃城となったが、天正10(1582)年4月、織田信長の武将森長可の北信濃侵攻に対して一揆が蜂起し、女、子供1200余名が虐殺されるという悲劇の舞台となった。
山頂の主郭を中心に、井戸郭、二の郭、三の郭などの平地と、V字形に尾根を寸断する大規模な堀切が現存している。
(看板資料より)

一の堀

 



2007年05月20日

長野市指定史跡 大倉城跡
大倉の地は大倉財閥で知られる大倉氏先祖発祥の地とされており、大倉村誌によれば、大倉城は鎌倉時代の文治元(1185)年に信濃守護に任じられた小笠原長清が北信濃防備のために築き、九男与市長澄が建久年間(1190〜98)に大倉へ移り住んで大倉氏を名乗り、代々住したと伝承されています。
「金沢文庫文書」によると、鎌倉時代の元弘元(1331)年当時、長澄の孫にあたる弥四郎隆綱と見られる人物が大倉にいたことは分かっていますが、当時の大倉は武蔵国金沢称名寺の所領とされていました。堅固な山城として現存する大倉城の形が実際に整ったのは戦国時代の永正10(1513)年頃、高梨政頼との抗争で大倉の地を得た島津貞忠の手によるものでしょう。
貞忠の孫にあたる忠直は、その後川中島の戦いでは上杉方に味方し、最後まで北信濃に踏みとどまって武田信玄の侵攻に抵抗したため、大倉城を拠点とする豊野から牟礼にかけての一帯は、武田方から「島津堺」あるいは「敵国堺」と呼ばれました。川中島合戦後は廃城となりましたが、天正10(1582)年、武田氏に代わって北信濃に侵攻した森長可に対して芋川親正が一揆を起こし、大倉古城を修築し篭城、激戦の末落城し女子ども1000余人が虐殺されるという悲劇の舞台となりました。落城後、一揆再発防止のため、長可の命により石垣等が破壊されました。
(看板資料より)

ここはたどり着くのに苦労しました。現地への案内板は早い時期から見つけていたのですが、途中関連史跡である大倉与一長澄(長隆)の墓を見つけてしまいそこに寄ってから地元の人に道を尋ねながら現地に向かいました。農作業をしていた人に場所を聞いたら、こんな大きな車では入っていけない!と言われてしまいました。大倉城へのルートはいくつかあるようでしたが、大倉城跡牢場口から行くようにアドバイスを受けました。言われたように行ってみると確かに立派な看板がありました。そこに車を止めて歩いて行きました。確かに狭くて危なそうな道でしたが通れないことはないと思います。少し登っていくと道が二つに分かれてしまいどちらが正しいのか悩みましたが左側に進んでみると大倉城跡牢場口の看板を発見することができました。案内板が指し示す方向へ向かって歩き始めましたがなぜかどんどん下っていきました。最初の郭?らしきところが本郭か!と思ってそこから引き返そうとしてしまいましたが、思い切って更に先に進んでいきました。途中何度も深い掘り切りを超えて行きました。堀が深いのでロープが張られていました。井戸郭の次が本郭でした。祠があって風林火山の旗がなびいていました。また落城400年祭の石碑もありました。記帳ノートが置いてあったので読んでから私も記載させて頂きました。本郭からは麓の町の様子を見ることができ、素晴らしい景色でした。更にそのまま進むと大手口の方に出られそうでしたが、車を置いて来たところに戻るのが大変そうでしたので本郭から見えた二の丸の写真だけを撮影して、来た道を引き返してきました。

大倉城跡案内図

大倉城
鎌倉時代、信濃国守護小笠原長清が築城し、その子大倉与一長澄が居住したと伝えられる。戦国時代は、島津氏の領有となり、その本拠である長沼城(館・南方約5km・長野市穂保)の出城としての役割を担っていた。その後廃城となったが、天正10(1582)年4月、織田信長の武将森長可の北信濃侵攻に対して一揆が蜂起し、女、子供1200余名が虐殺されるという悲劇の舞台となった。
山頂の主郭を中心に、井戸郭、二の郭、三の郭などの平地と、V字形に尾根を寸断する大規模な堀切が現存している。
(看板資料より)

大倉城 井戸郭

大倉城 二の郭

 
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