遠光寺略縁起
当山は甲斐源氏の祖・新羅三郎義光より三代、加賀美次郎遠光公が深く仏法に帰依して、山梨郡小曲村(甲府市小曲町)に一寺を建立し、真言宗感応山遠光寺と称した。建歴元(1214)年のことと伝える。
はじめ当山は小曲の地に建立されたが、水害に悩まされ、蓬沢の地に移転、この地も水害が多く天文年間(1532〜1555)に城南の大畑村すなわち現在の地に移転し、村名も遠光寺村と改めた。
開山には臨済宗の祖千光国師栄西を開山に請じたが、栄西は老齢を理由に弟子の宗明を入山させた。
開山の宗明は、日蓮聖人が比叡山ご学遊の頃、比叡山の学頭をしていた。また日蓮聖人を身延の地へ請じた波木井実長公は遠光公の孫にあたり、その縁もあって宗明は身延山に入山した日蓮上人に深く帰依し、名を最上院日宗と改め、日蓮聖人の客弟となったのである。その際日蓮聖人より七重の宝塔曼荼羅を賜り、山号を宝塔山遠光寺と改めた。
日蓮聖人が池上の地で入寂され、荼毘に付され身延山で葬儀が執り行われた。その際導師を勤めたのが日宗であった。以来7年間日宗の入滅まで10月12日の正当会には日宗が身延へ赴き導師を勤めたのである。身延山第8世日憶上人の代に至り、当山住職は、大聖人御逮夜の導師たるべきことを定められた。
天正19(1591)年には「河東之惣導師」(釜無川以東の日蓮宗寺院の支配)の免許を授与され、以降法主が交代する際また遠光寺の住職が交代する際免許状が取り交わされた。
江戸期における甲斐国身延山系寺院は、一之瀬の妙了寺、鏡中条の長遠寺、そして遠光寺の三ヶ寺を甲斐国三大触頭に諸末寺の支配が託された。
当時の記録には、遠光寺は69の支配寺院と17の末寺を有していたと伝えられる。
また身延山歴代の法主ご入山の際は、当山の書院に一泊され、身延に向かわれるのが通例となり今日に至っている。
昭和20年7月7日の甲府大空襲により七堂伽藍のことごとくが灰燼に帰し、現在の本堂は日蓮大聖人の御生誕750年の慶讃記念として地元山梨出身の内藤多仲博士設計のもと昭和45年7月に法隆寺の夢殿を模して建立されたものである。
(パンフレット資料より) |