永禄年間(1558〜1570)、飯田城主の坂西長忠と松尾城主の小笠原信貴との領地争いに端を発した紛争が続いた。永禄5(1562)年、坂西長忠が武田勝頼に謀反したとこにより紛争に拍車がかかった。9月16日、坂西氏の兵が松尾に侵入したことを契機に、松尾城主清水但馬守を先鋒とする小笠原勢が飯田城へ総攻撃をかけた。持ちこたえることができない飯田城主長忠は小雨の中を城を捨て、竹村・窪田・代田らの家臣と共に、木曽方面へ逃げ出した。小笠原氏は密使近藤茂助の通報により、市瀬・勝負平に先回りをして討ち取った。その時、長忠は一子を家来に託して落ち延びさせようとしたが、家来は山中を踏み迷った後、かろうじて飯田峠を越えたが、大平宿東端の迷い沢下流で息絶えたといわれている。この子供を祀ったのが御君地蔵で、また「迷沢」「御子谷」の地名がついたといわれる。
(歴史の道調査報告書二一 大平街道より)
御君地蔵尊由来
坂西刑部少輔宗満八代の孫坂西伊豫守長忠、永禄五年戌六月松尾城主小笠原下総守信貴領分北方村山村にて押領の事あり。依之信貴は甲州武田大膳太夫信玄に訴へ、同六月はじめより飯田の城を攻める。長忠力戦したるも衆寡適しがたく同月十一日夜中に家臣近藤茂介に一書を持たせ木曽へ遺したるところ、途中において小笠原の臣清水但馬に生取りとなり事露見す。信貴は家臣木下、日枝、田中、伴野、清水、上野、代田其他百余人をして市の瀬辺に先廻りして待つ。長忠かくとも知らず翌十二日の夜半竹村、窪田、高田、川口、蜂谷其他二十数人と妻子を伴ひ風雨に紛れて城を脱出。木曽路をさして落ち行かんとせしところ、前伏兵起ちて追手の兵との極撃に会ひ遂に全滅す。今此所を勝負平といふ。時に長忠二十五才、之長忠に一子有、延千代とい々二才なり長忠将に自害せんとする当りて家臣竹村、窪田に一子延千代を託し後事を謀らしめんとす。即ち両人は延千代を抱き間道から駆け抜け木曽路へ落ち行かんとせしも案内を知らず、かしことさ迷ううちにあわれや嬰児は遂に餓死す。両人涙ながらに小黒川の沢辺に屍を埋め、小黒川を下りて現今の山本竹佐に所縁を求めて土着した。
勝負平の裏山一帯を迷い沢とい々、また其所の谷をお子(ぼこ)谷といふ地名となりて当時を偲よすがとなって居る。
余思うに敗戦者の惨めさは時代の古今を問わず洋の東西を論ぜず真に悲惨なるものといふことなり。世が世なりせば一城の主と仰がるべき身が両親郎党悉く討死東西すら弁ぜぬ頑是なき其身は山中に餓死し賽の河原の石一つ積んでくれる者もなく、折れ線香の本立って合掌する人もなしとはまことに不憫なるかなと惻隠の情禁ずる不死、即ち地蔵尊を建立死里人御君が墓と称ふるをとりて御君地蔵尊とは名づくなり。
(看板資料より)
|