古山城跡
本地域は、長野県最古の古文書である「天養文書」に初見される、最勝寺領小川庄に属する。古山城は純然たる山城で、標高860mの山頂にあり、本丸、旧本丸、本郭、曲輪、空掘、詰城などの形跡を残しているが、現在の天神社があるところが最初の本城といわれ、城の守護の社がそのまま残存したものと推定される。北東付近は、今より二百年ほど前に、南東付近は弘化の地震で抜け崩れ、地形の旧態は見ることができない。
城主は小川左衛門貞綱で、室町時代三河国小川苅谷城主(現愛知県知多郡苅谷町)であったが、足利義満によって南北朝が統一されると、南朝に属していた貞綱は無実の罪によって貶せられ(官位を下げて遠方に追いやる)信濃の山中に追放された。
元中9(1392)年古山城(当時は布留山城と称した)を築き城主となり、貞綱、貞義、定縄と三代78年間にわたりこの地方を治め、かなりの勢力を持ったと推定される。
しかし当時信濃で大勢力を誇っていた村上顕国の命に従わなかったので、顕国は更科郡牧ノ島城主香坂安房守に定縄追討を命じ、安房守は猶子大日方小五郎長利(後に長政)とともに古山城を攻めてこれを破った。顕国は戦功を称え、小川郷を長政に与えた。
小川定縄は、かつての領地、三河の小川苅谷に復帰し、罪を許され、姓を水野と改め、徳川に従い水野忠政の時、大名になったという。
時代は下って、長政の後継者である直忠には、直経、直武、直長、直龍、直親の五人の子供があったが、この頃武田軍の信濃侵攻が始まり、大日方氏にもその手が伸びてきたのである。大日方一族は武田軍に対応する重大な岐路を迎え、五人兄弟の評議は上杉方と武田方のいづれに組するかで意見対立となり、武田抗戦を主張する長男金吾介直経を説得することができず、ついに謀計をもって亡き者にしたという。
後年、直経の霊を弔うため、城跡に金吾様と称する祠が建立されている。なお、定縄攻略の年次については応仁2(1468)年、永正2(1505)年、天文5(1536)年の諸説があり、研究の課題となっている。
(看板資料より)
小川神社ではお祭をしていました。その小川神社の近くのお店の前に車を止めてお店の中にいたご婦人に小川城の場所を聞いてみました。すると店の外に出てきてくれて、小川神社の先にある山の上を指差して場所を教えてくれました。あんな高い場所まではさすがに登ってはいけないと思いましたがどうやら車でかなり上まで行かれるとのことでした。猫寺で有名な法蔵寺から登っていけば行かれると教えてくれました。ご婦人も2回ほど行ったことがあるとのことでした。ここでも、行っても祠があるだけだよとアドバイス頂きました。
法蔵寺への看板に従っていくと、古山城の説明が書かれた大きな看板がありました。そこに車を止めて歩いて行くと古山神社がありました。最初は階段でしたがその後山道のようになりました。更に古山神社の奥に進んで行くと丘のようなところがありました。遊歩道のようなものはありませんでしたが上まで登っていくと史蹟古山城と書かれたものと祠がありました。 |