野田城 |
2014年03月29日 |
この城は、永正5(1508)年に築城されたと伝えられる。菅沼定則、菅沼定村、菅沼定盈等がここを居城とした。 |
野田の戦 |
永正5(1508)年菅沼新八郎定則(田峯城主菅沼定忠の三男)が築城。天文13(1544)年2代目定村が家督を継ぐ。弘治元(1555)年定村は雨山の戦いで討死、三代目定盈が相続する。 |
伝信玄公、狙撃場所
笛の音に誘われた武田信玄をこの付近より火縄銃にて狙撃した。その銃は銃身だけが設楽原歴史資料館に展示してある。 |
2006年05月05日 |
本丸跡にある稲荷
野田城には過去何度か来ていましたが、今回は現地の看板にも書かれている金堀人足が穴をあけた場所及び井戸を確認することが目的でした。→野田城絵図 |
野田城址と書かれた石碑の前に石がありますが、菅沼定盈は小柄な人だったそうで、馬に乗るときにはこの石を踏み台にして馬に乗っていたということですが、この話は現地どこかに書かれていた情報だったのか、どこかの本で読んだ情報だったのかは忘れてしまいました。 |
本丸周辺の堀
JR飯田線の駅名にもなっている野田城ですが、ひっそりとしていて、観光用に手を加えられた様子もなく、鬱蒼とした林の中で苔むした遊歩道を歩くことができます。
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2003年10月11日 |
この城は、永正5(1508)年に築城されたと伝えられる。菅沼定則、菅沼定村、菅沼定盈等がここを居城とした。 野田の戦 |
1999年11月23日 長篠城から飯田線沿いに豊橋方面に少し行った所に野田城址があります。ここは信玄が三方原合戦にて徳川方に大勝したあとに攻略した城で、このときの城主は菅沼定盈。武田方は金堀師を呼び寄せて城の水の手を絶ち、この城を陥落させる。しかしこれが信玄にとっての最後の攻城戦となってしまうのである。 |
→法性寺
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