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高知県仁淀川町

鳴玉神社


2008年05月04日

高知県仁淀川町の大崎小学校の近くに鳴玉神社があり、この神社は大崎玄蕃を祭っており、大崎玄蕃とは武田勝頼のことであるとのことでした。場所を確認するためにまずは仁淀川町役場に行きました。大崎玄蕃が祭られている鳴玉神社について聞いてみたのですが役場の方は分からないようでした。吾川村史(合併前は吾川村であった)を見せて欲しいとお願いしたのですが、教育委員会でないと分からないそうで見せてもらうことはできませんでした。しかたなく大崎小学校の場所だけ教えてもらって現地に行ってみました。すると運良く小学生がいたので鳴玉神社について聞いてみたところ、知っていたようですぐに教えてくれました。本当に大崎小学校の校門のすぐ近くでした。神社といっても小さな祠のような感じでした。裏に行ってみると小さな石像が2体あって向って左側の石像には大崎玄蕃大神と彫られていました。

大崎村神社明細帳を見ると、
鳴玉神社
祭神 玄蕃頭比古神
由緒 勧進年月縁起沿革未詳
一書云大崎城主大崎玄蕃と云有、其居城跡に八幡宮ノ杜アリテ、木偶子種類社間ニ納ム、希世ノ古物也。里諺ニ大崎玄蕃ハ武田勝頼ノ変名也。勝頼ノ墓モアリ、又木偶子ハ勝頼自ラ携ヘ来ルト云々。
と見えるが、勝頼は「日本史」によると天文15(1546)年生まれ、天正10(1582)年、織田信長に攻められ天目山麓の田野で自刃したことになっている。もし彼が逃れて大崎に来たとすれば、大崎名検地のあった天正18(1590)年11月には44歳であり、ちょうど年代は符合する。しかし西川井ノ村で単にニ筆の田畑、三反七代二分の登録人であって居屋敷もなく知行権のない玄蕃が、大崎城を築いたり、八幡宮を建立したり、また大崎名の支配者であったりすることができるであろうか。地検帳を見ると、当時大崎名土居村には土居前に、一町歩を超える屋敷地を名請し、新田八幡領三反余を管理する「彦左衛門尉」のいることを見れば、武田勝頼の生まれる以前に、当地方は片岡氏の所領となり、八幡宮も建立されていたことが立証される。もし大崎玄蕃が大崎の土豪として実在し大崎城を築いたとすれば、相当の年代を過去へもどす必要があり、大藪のひょうたん桜を玄蕃が植えたという伝説についても同様のことがいえるのである。
(吾川村史より)

この土地には大崎玄蕃(武田勝頼説)などの伝説がある。織田・徳川の連合軍によって武田氏が滅亡する以前、戦国時代初頭、「南路志」や「土佐州郡志」に見える大崎長門に連なる人が城を構え、土居屋敷をもっていたことがうかがえ、また天正10(1582)年武田氏は滅んでいるが、その時代大崎土居村には、土居ノ西・川井土居前などの地名が見え、二町歩をこえる屋敷や田畑を名請する彦左衛門尉がいるのを見ると、遠い昔、ここには半農半武士的な地方豪族がいたことは間違いのない事実である。
(吾川村史より)

 


大藪の彼岸桜
嗚呼儀将忠信墓

 

 
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