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群馬県みなかみ町

宮野城

2012年12月23日

永禄3(1560)年、長尾政虎(謙信)がここに一泊した時、8本の歯が抜けて掌に落ちた夢を見て不興がったのを、直江実綱が「関八州を手に入れる吉兆」と説いた。謙信は申年生まれ、この年も申年だったので、宮野を猿ヶ京と改めたと伝えられる。
謙信急死により起こった御館の乱に、天正6(1578)年5月、上杉景虎(北条氏康の七男)赴援のため越後に向かおうとした河田重親は、宮野城に阻止されて敗退したが、小田原勢の進出により宮野城兵を追って三国峠を越えた。
しかし翌7年3月、景虎の敗亡によって沼田に撤退し、上杉景勝方の尻高左馬助らが宮野城に入った。天正8年4月沼田城を手に入れた武田勝頼は、海野輝幸を沼田城代とし、輝幸は5月のはじめ箱崎の城代森下又左衛門に宮野城を攻め取らせた。「須川記」中の尻高左馬助討死の壮烈な物語はこの時のものであろう。
(日本城郭大系より)


湖城閣

宮野城址砦の由来
ホテル湖城閣の建つ現在の地は、その昔宮野城の砦の位置であります。上杉家の城代で知高左馬亮景家の居城は、尻高にございました。
天正2年に武田家の武将海野三河守の軍勢に攻撃され尻高城は陥落し城主景家は討死したのであります。
景家の子義隆は親の言に従って再起のため退き、猿ヶ京に匿れ、此の地に宮野城の砦を築き立て篭もるのでございます。
時移り上杉謙信の死後その流れの北條氏直に仕えて、天正8年となりました。
その頃は沼田利根以西の武将のほとんどが北條氏に背き武田家の真田昌幸の軍に属して、義隆の軍は孤立したのであります。
武田方より宮野城攻撃の火蓋はきられ敵の大将、沼田城の城代海野能登守率いる軍勢に砦は包囲されたある日のこと砦の中に一通の書状が届き、それは能登守の家臣で義隆の妻の甥である恩田伊賀の書状でありました。
文中に、伊賀曰く、身を殺して仁を為すは勇者の則なり、公盍ぞ速に自ら計らざるやと、義隆砦の遂に保つべからずを悟り、砦を能登守に渡し部下の従わんとするを諭し、故郷に去らせて側近僅かに8人を従え後閑の舒林寺に退いたのでありますが、舒林寺に於いて自決されました。
(現地案内板より)


本丸手前右側の掘

最初に猿ヶ京の関所跡資料館に立ち寄って周辺の史跡等について教えてもらいました。地図をもらって現地への行き方も丁寧に教えてもらったので迷うことなく到着することができました。
日本城郭大系によると、本丸に向かって堀が二重に存在している絵図が紹介されていますが、これらの写真の空堀は本丸に近い内堀側の掘と思われます。かなり大きくて深い堀で驚きました。外側の堀については残念ながら認識できるようなものは確認できませんでした。

本丸手前左側の掘


謙信の天狗様

猿ヶ京に上杉謙信の関東最初の出城宮野城跡がある。この守り神が天狗様である。今でも立派に祭られている。城主、尻高左馬之介は特にこの天狗様を信仰し城の安泰を祈願し武運長久を祈った。この城の落城後は荒れ果てて「夏草や兵共の夢の跡」を思わせていた。戦時中は武運長久と蚕の神様として村人はよくお参りした。又、開運の神としても知られている。お天狗様をお参りする時には、竹の筒に酒を入れて供えた。
今も天狗はあちこちにいる様であるが、この天狗の「御利益」は大変なものであったと言われている。どうぞ何でもお願いしてみてください。
(現地案内板より)

 

 
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