胴塚
永禄12(1569)年10月、当町三増の原で行われた「三増合戦」は、甲州の武田、小田原の北条両軍が力を尽くしての戦いだったようで、ともに多くの戦死者が出た。そのおり、討ち取られた首級は、ここから150メートルほど上手の土手のうえに葬られ「首塚」としてまつられているが、首級を除いた遺骸は、すぐ下の志田沢の右岸わきに埋葬され、塚を築いてそのしるしとした。
この地では、それを「胴塚」と呼び、三増合戦にゆかりのひとつとして今に伝えている。
(看板資料より)
三増合戦場の史跡でまだ発見できていなかった首塚と胴塚の場所を探しまわっている最中に、犬の散歩中の婦人に場所を聞いてみたのですが、場所や合戦のことに詳しい方(実はお父様であられた)を紹介してもらい、家にお邪魔し、その方を助手席に乗せて現場へと向かいました。
その方のお話では、現地に伝わる三増合戦の様子は、山に陣取る武田軍2万とそれを攻め上げる北条軍2万との間で激戦が繰り広げられたが山県昌景率いる別働隊5千が甲州へ帰るとみせかけて一旦引き、志田峠を越えてちょうど首塚あたりで志田沢を越えて北条軍の横腹を突いたため北条軍は総崩れとなったとのことでした。
首塚の右横にある道路を作る際の工事の際に首塚に祀られている碑が発見されたとのことです。胴塚は胴塚の案内板があるところの下の川のたもとに石が置いてあるとのことですがこの日は下まで降りることができず確認するまでには至りませんでした。
三増合戦場付近での武田軍の評判を聞いてみましたが長篠のように武田びいきというわけではなく、かといって侵略者として憎まれているわけでもないとのことです。
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