箕輪町指定史跡
名称:松島氏の墓域
この地は松島城跡で、城域はもとは東西約200メートル、南北約300メートルにおよぶ規模をもっていた。墓は、城域の中央やや西北にあたり、二基のうち一基の角柱墓石には、
享禄辛卯4年7月15日卒(1531)
金剛院殿庭岩宗雪大居士
前松島城主対馬守頼実公墓
とあるが、これは小笠原家譜によると、明音寺を開創した松島氏二世政行のことであり、その左にある自然石の墓碑は、弘治2(1556)年に没した三世貞実のものである。
松島氏は小笠原信濃守長清の末葉で、小県郡からこの地に来て土地の名をとり松島氏を名乗ったと伝えられ、この墓は江戸時代の中ごろ、明音寺の住職が造ったものである。
(看板資料より)
松島氏の本城が箕輪町役場の近くになるとのことで今回立ち寄りました。すでに遅い時間でしたがなんとか写真は撮れそうでした。役場の駐車場に車を止めて降りてみると駐車場の一画に城跡碑がありました。そこで説明文を読んでみると、城跡西側に松島氏の墓があるとのことでした。ちょうど役場に隣接して図書館があり、しかもラッキーなことに開館していたので図書館で聞いてみることにしました。
受付には若い女性しかいなくて、これは駄目かなと思ったのですが少し聞いてみたらすぐに話は伝わり、文化センターの横にあると教えてくれました。
現地に行ってみると確かにそれらしい場所がありましたが周囲が柵で囲われていました。出入り口の部分には鍵が掛かっていなかったので中に入りました。手前の大きな石碑は多分違うものだと思います。奥にあった小さな石碑が松島氏のお墓だと思います。
その後もう一度図書館に戻って町誌を見せていただき、武田氏の伊那侵攻の部分をコピーさせてもらいました。
伊那谷の人たちは老若男女関係なく郷土の歴史を良く知っていて驚きました。
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