真里谷城 |
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主郭(千畳敷)
「まりか谷城」とも呼ばれた真里谷城は、戦国時代の初期にあたる康正2(1456)年、上総国に進出した甲斐(現山梨県)の武田信長が庁南城(長生郡長南町)とともに上総地方を支配するため築いたもので、この地方の中心となった山城です。城は「千畳敷」と呼ばれる主郭を中心に東西400m、南北700mにわたって山全体の人工的に造り変えています。、大きく4つの部分からなり、敵の侵入を防ぐため、各所に堀切や土塁、曲輪が造られています。主郭の前面(西側)は、自然の谷を利用して二ノ郭と分断されています。城の入口となる大手は、三ノ郭北西の矩形を呈した掘割道に続く箇所と思われ、一方非常時の逃げ道となる搦手道は、主郭南方の尾根筋などが想定されます。ここには土橋などが設けられています。 |
室町時代中頃から戦国時代に至る中世の上総地方を支配したのが、真里谷武田氏である。この武田氏の祖が武田信長で、康正2(1456)年に築いたのが、この真里谷城と庁南城である。信長は、甲斐(山梨県)の守護武田氏十三代武田安芸守信満の次男である。 |
城山神社
由緒沿革 |
真里谷城の始まりは戦国期前半に上総経営の一拠点として、真里谷武田氏によって構築されたと伝える。真里谷武田氏は庁南(長南)武田氏と同族の房総の武田一族であり、庁南系から独立して西上総の攻略・経営を担っている。その後、天文6(1537)年に真里谷武田一族の分裂が起こり、峰上城主の武田信隆が、真里谷城主で当主の信応に対抗した。この状況を記した「快元僧都記」によると、信隆は「真里谷新地の城」にも勢力を持っていたという。この新地城の所在については諸説あるが、現在はこの天神台城に比定する説が有力である。 今回は時間が無かったこともあり、城の一部しか確認することができませんでした。南東方面の主郭、城山神社、虎口などのみです。二ノ郭、三ノ郭、四ノ郭なども存在するとのことであり、次回訪問が必要です。
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