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静岡県静岡市

丸子城

2014年12月21日

丸子城は室町記の初めから、戦国動乱の終わりまで約150年間、今から400〜550年前にかけての中世の山城で、京都と鎌倉を結ぶ東海道の大動脈だったこの地区を押え駿府の西の防衛拠点としての要城でした。別名を宇津ノ谷城、三角山城とも言われ今川、武田両戦国大名によって標高136メートルの三角山を中心に尾根沿いに南北約500メートルにわたって多くの曲輪が階段状に築かれ、今川氏の北城と武田氏の南城を連結して武田流の山城として完成したものです。天険を巧みに利用したこの城は当時の遺構がそのまま現存することでも有名でその保存度は県内中世山城の随一で、全国的にもあまり例を見ない貴重な山城遺跡であるといえます。
(看板資料より)

永禄11(1568)年12月、今川軍を興津河原に破った武田軍によって駿河府中は焼き討ちされ、駿河に陣を敷くやけだ信玄は西駿河に残る今川方諸城に対処するため、重臣山県昌景を丸子城に駐屯させて守りを固めている。
永禄13(元亀元、1570)年、駿河全域を手中に収めた信玄は、丸子城に諸賀兵部大輔・関甚五兵衛を在番として置き、天正6(1578)年頃、城将は屋代勝永に代った。この間に丸子城の西側に大々的な増築が行われ、また城内各所にも手を加えている。同9年3月、武田方の拠点高天神城落城を前に武田勢は徳川軍に城を明け渡して退去した。そこで家康は松平備後守を駐留させたが、まもなく家康の関東への転封とともに廃城となった。
(日本城郭大系より)


丸子南城本丸

丸子南城については北城と比較すれば戦国時代の特徴を持ち、北へ向って延びる主軸尾根南端に長さ95m、幅平均40mの主郭「千畳敷」を設けている。周囲に高さ2mの土塁をめぐらし、これを軸として東・西に発する支尾根上に曲輪を段状に重ねている。
南城は北城に比べると両斜面が急傾斜でなく、西側のみ斜面に孕みをみせており、南北両城を繋ぎ合わせた細長い城域であるから、西側斜面を伝って中央を切断される弱点があるため、それを補う目的で、本丸・二の丸・北城主郭間の西側斜面には南北に貫くように長大な空掘を設けている。但し中央部分は両端の堀より5m高く、帯曲輪と堀の兼用的なものを設け、二つの張り出しを造り、一つは堀を凸状に張り出させ、一つは土塁上に半円形の馬出しのような小郭とその前面を防御する空掘や、外側斜面を横歩きする敵を阻止する竪堀が数本見られる。

馬出曲輪

喰違い虎口

平虎口

本曲輪(一の曲輪)

堀切

枡形虎口

二の曲輪

本丸・二の丸・北城主郭間の西側斜面に南北に貫くように続く長大な空掘


丸子北城本丸

丸子「北城」は、南から東に屈折し北東に延びる主軸尾根に、西から東へ一の曲輪・二の曲輪・三の曲輪と一直線に並んで段状に曲輪をつくり、各曲輪とも土塁で囲まれほぼ独立しており、郭内は狭く、郭間は北側は空掘で仕切られ、南側に喰違い虎口を設け、中央の曲輪のみがやや発達した枡形を造っている。北城の南側には諸所に土塁の跡が認められる。一方、北側は厚い土塁が完全に残り、最高所である一の曲輪は南方から東へ鉤状の形を示し、前面に一段下がり腰曲輪を付けていたようであるが、斜面の崩落により現在は急傾斜となっている。南側には三方を低い土塁に囲まれた腰曲輪が設けられ、その南に幅6mの空掘があり、ここが北城の南限と考えられる。このように丸子北城は、室町時代初期に見られる在地土豪の居城で、北側の扇状地に居館を設けたことは地勢によるものと考えられる。

土塁

竪堀

大手曲輪

土橋

三日月堀

三日月堀の内部

三日月堀と東の曲輪

堀切

堀切


出曲輪



2004年05月01日

丸子城は室町記の初めから、戦国動乱の終わりまで約150年間、今から400〜550年前にかけての中世の山城で、京都と鎌倉を結ぶ東海道の大動脈だったこの地区を押え駿府の西の防衛拠点としての要城でした。別名を宇津ノ谷城、三角山城とも言われ今川、武田両戦国大名によって標高136メートルの三角山を中心に尾根沿いに南北約500メートルにわたって多くの曲輪が階段状に築かれ、今川氏の北城と武田氏の南城を連結して武田流の山城として完成したものです。天険を巧みに利用したこの城は当時の遺構がそのまま現存することでも有名でその保存度は県内中世山城の随一で、全国的にもあまり例を見ない貴重な山城遺跡であるといえます。
(看板資料より)


武田時代の本丸

丸子城はあまり気にとめていなかったのですが来てみて驚きました。北側が今川の時代の本丸、南側が武田の時代の本丸だそうです。麓のお寺に車をとめて登ってくるのは疲れまずが、登りきったところが武田の時代の本丸です。そこから今川の時代の本丸まであまり時間もかけずに行くことができるので是非そのまま進みましょう。次々と曲輪があってそれを仕切る堀、左側は延々と堀が続き、右側は断崖絶壁、まさに自然の地形を利用した、今見てもはっきりと分かる遺構が残っています。
今川の時代の本丸の更に先に進むと、左側の堀がここまで伸びていて廻りこんでいます。かなりの規模の堀で諏訪原城の堀を連想させます。是非ここまで来ることをお勧めします。
ここから西の堀に沿って帰ってこようとすると別の方角に行ってしまう恐れがあるので注意しましょう。現に私も道に迷ってしまいました。
西の大空堀の下にも更に大きな堀を見ることができます。二重、三重に堀がめぐらされています。
本丸から西の空掘りと反対側に行ってみると、袖曲輪があってそこから下を除くと更に曲輪が何段にも続いています。

二の丸

三の丸

今川時代の本丸

奥の三日月堀

西の空堀

 
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