久留里城 |
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久留里城は「城成就して3日に一度づ々雨降ること21度なりしかば」(久留里記)という説から別名を雨城と言います。 |
久留里曲輪
本来的な起源としては、甲斐の武田氏の流れを汲む真里谷武田氏によって築城されたと考えるのが妥当である。武田信長は、甲斐の守護職安芸守信満の二男である。信満は、応永24(1417)年、足利持氏に攻撃され、十賊山で自殺している。その後、武田氏の領国は逸見氏に与えられ、武田氏は室町幕府六代将軍足利義教の保護下に入り、結城合戦に参戦し、何度かの戦功の結果、古河公方から上総国の守護職に任ぜられ、庁南・真里谷の二城を築いて、上総東部および西部を制圧した。信長は、庁南城主となって長子信高を真里谷城主に置いたと考えられる。この真里谷武田氏の一支城として築城されたのが久留里城である。この頃の城は、現在の久留里城とは若干位置が異なり、二の丸に続く標高約120mの独立丘陵に近い形状をした部分にあり、古久留里城(通称上の城)と呼ばれていた箇所に居を構えていたと考えられる。『久留里記』には、三河守信重が初代の城主となっているが、真里谷武田氏の系図には信重の名はみられず、三河守信重は信長の孫にあたる信興である可能性が強い。その後、武重・(勝)真勝に至って安房国を支配していた里見義堯と戦い、久留里城を明け渡している。上総に侵入し、真里谷武田氏などの旧勢力を支配下に収めた里見氏は、現在の久留里城に居を構え、全盛期を迎えた。 |
天神曲輪
麓に駐車場があって、思ったより車が沢山止めてあって驚きました。大勢の人たちが城跡を見に来ていたのです。天守閣が復旧され、二の丸には資料館なども存在していました。アスファルトで舗装された道路があって一般の人たちも登りやすくされていると共に、途中から本来の山城の雰囲気をもった登山道も併設されていたのが良かったと思います。アスファルトの道路を作ることは城の一部を破壊していることですが、それによって大勢の人が久留里城に行ってみることができるという環境を複雑に感じました。 |
火薬庫跡
久留里城については戦国期前半の段階で真里谷武田氏が真里谷城の支城として利用していたと伝えるが、築城を証明する決定的史料は残念ながら現存していない。当城が歴史の表舞台に立つのは里見義堯による西上総の拠点とし、広く名を轟かせたことによる。その頃から一転して敵対勢力となった北条氏との抗争の場ともなっており、永禄年間を中心に同氏による久留里城攻めが繰り広げられ、危機的状況が続いていた。しかし里見氏は微妙な段階を乗り越え、当城を佐貫城と並ぶ里見氏中枢の城として整備していった。ところが、天正18(1590)年、徳川家康の関東入部に際して同氏は安房一国の領有を命じられ、当城は徳川氏譜代の大須賀氏の城となった。ここに近世久留里城が始まる。そのあとには土屋氏が城(藩)主となり、一時空白期があったあとに黒田氏が治め、明治初頭に廃城となっている。
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