久遠寺 |
2013年12月22日 |
三門
古く寛永19(1642)年、26世日暹上人のとき、伏見宮邦房親王の第8王子尊賀院日廷上人が普請奉行として建築されたが、慶応元(1865)年に焼失し、明治40(1907)年78世日良上人の代に全国寺院檀信徒の協力を得て再建されました。関東三大門のひとつに数えられています。仁王尊は横浜市金沢区六浦の上行寺より六浦平次郎入道妙法禅門が背負ってここまで運び寄進したという伝説があります。六浦平次郎は相州荒尾城主播磨守の後身で、中山法華経寺日佑上人の弟子となり日荷と名を改めたといいます。楼上には京都の仏師辻井岩次郎作の十六羅漢像がまつられています。身延山の扁額は79世日慈上人筆です。 |
本堂
明治8(1875)年の大火以来、本堂の再建は身延山の悲願でした。機熟し、日蓮聖人第七百遠忌の主要事業として、88世日慈上人代に着手、89世日康上人代を経て、90世日勇上人によって昭和60年5月入物落慶式が行われました。総面積970坪、間口17間半、奥行28間、内外装は木造仕上げ、外陣の天井画「墨龍」は加山又造画伯の力作、昭和61年度の建築業協会賞を受賞した総本山の根本殿堂にふさわしい規模と格調を備えました。 |
祖師堂
仏殿・納牌堂
昭和6(1931)年に竣工したこのお堂は、日蓮聖人第650遠忌を記念して81世日布上人のとき全国寺院檀徒の丹精にて出来たものです。
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2010年01月01日 |
三門
古く寛永19(1642)年、26世日暹上人のとき、伏見宮邦房親王の第8王子尊賀院日廷上人が普請奉行として建築されたが、慶応元(1865)年に焼失し、明治40(1907)年78世日良上人の代に全国寺院檀信徒の協力を得て再建されました。関東三大門のひとつに数えられています。仁王尊は横浜市金沢区六浦の上行寺より六浦平次郎入道妙法禅門が背負ってここまで運び寄進したという伝説があります。六浦平次郎は相州荒尾城主播磨守の後身で、中山法華経寺日佑上人の弟子となり日荷と名を改めたといいます。楼上には京都の仏師辻井岩次郎作の十六羅漢像がまつられています。身延山の扁額は79世日慈上人筆です。 |
南部實長公銅像
日蓮聖人は文永11(1274)年5月17日、領主南部實長(波木井)公のお招きにより、この身延のお山にお入りになられました。實長公は「今生は實長に及ばん程は見つぎ奉るべし、後生をば聖人助け給へ」とのお約束どおり、日蓮聖人ご在山の9年間一族をあげてご給仕されました。また、公は「13里に四方の堺を立て今、日蓮聖人に之を寄附す」との置文をして、身延山を中心とした13里四方を日蓮聖人にご寄附され、子々孫々に亘り身延山を護ることを戒められ、永仁5(1297)年 9月25日、76歳でお亡くなりになりました。 |
菩提梯
26世日暹上人の寛永9(1632)年に、佐渡の住人仁蔵の発願によって完成したものです。高さ104mで三門と本堂を一文字に結ぶ287段の石段は、南無妙法蓮華経になぞらえて7区画に分かれています。菩提梯とは覚りにいたる梯のことで、この石段を登りきれば、涅槃の本堂に至ることが出来ることから、覚りの悦びが生ずることを意味しています。 |
本堂
明治8(1875)年の大火以来、本堂の再建は身延山の悲願でした。機熟し、日蓮聖人第七百遠忌の主要事業として、88世日慈上人代に着手、89世日康上人代を経て、90世日勇上人によって昭和60年5月入物落慶式が行われました。総面積970坪、間口17間半、奥行28間、内外装は木造仕上げ、外陣の天井画「墨龍」は加山又造画伯の力作、昭和61年度の建築業協会賞を受賞した総本山の根本殿堂にふさわしい規模と格調を備えました。 |
再建された五重塔
武田信玄の支配 穴山氏の支配 15世日叙上人代には、信玄の帰依を得ましたが、信玄は永禄元(1558)年12月15日、身延山に対し7箇条の禁制を出しています。これは武田氏との関係の子文書としては最古のものであり、その内容は身延山にて殺生を禁止、諸役免許のこと、狼藉禁止のこと等であり、町中を含めて久遠寺の支配下に置くことを決めているものです。家臣の穴山信君も歩調を合わせ、永代不入の判物を身延山に出しています。 武田信玄の身延攻めの伝説 比叡山を身延山に移す伝説 |
祖師堂
御真骨堂
拝殿の奥に望む土蔵造り八角堂が日蓮聖人の御舎利を奉安する御真骨堂です。尾張の信徒の丹精によって明治14(1881)年74世日鑑上人の代に建立されました。御真骨堂の中央には精緻を極め善美を尽した5重塔があり、その中央の水晶の宝龕蓮華台は美濃国の寺院、五重塔と天蓋は長崎の講中の寄進するところであり、金銀をちりばめた四天王は後藤佑乗の彫心鏤骨の作です。 |
仏殿・納牌堂
昭和6(1931)年に竣工したこのお堂は、日蓮聖人第650遠忌を記念して81世日布上人のとき全国寺院檀徒の丹精にて出来たものです。 |
開基堂
このお堂は、身延山開基大檀越南部實長公(法寂院日圓上人)をまつりしてあります。日蓮聖人は文永11(1274)年、領主南部實長(波木井)公のお招きによりこの身延のお山にお入りになられました。實長公が「今生は実長が身に及ばん程は見つぎ奉るねし、後生をは聖人助け給へ」とのお約束どおり、日蓮聖人そ在山の9ヵ年一族をあげてご給仕され、身延山を中心とした13里四方を日蓮聖人にご寄付され、子々孫々に亘り身延山を護ることを戒められました。 |
奥の院展望台からの富士山
元亀2(1571)年織田信長の焼き打ちにあった比叡山延暦寺の残党が武田氏を頼って甲州に入った。信玄はこれらの僧たちの願いを入れ、甲州に延暦寺を再興しようとした。信玄は身延山を当時空き家だった信州善光寺に移し、身延山を延暦寺にしようと寺の明け渡しを求めた。身延山は15世日叙上人の時代で彼らはただちに一山の僧を祖師堂に集め、日蓮上人の木像の前で7度くじを引いたが、「合点」のくじが下りなかったので、その旨を使者を通じて申し出た。このため信玄も身延山への延暦寺再興をあきらめたという。 天文年中に当国の守護の信玄が身延山を中野の杉山に移し、その跡を城郭にしようと安間弾正左衛門を使いとして派遣した。貫主老僧一同に私の返事をするわけにはいかなかったので、祖師に任すべきだとして満山祖師の霊前に集まって、一万部巻の陀羅尼経を誦し、くじを3度引いたが祖師の心にかなわなかったと返事をした。すると信玄はそれならば軍勢をもって破却してその場所を取ろうと思った。この事が身延に聞こえると護法の神力を頼むしかないと満山大堂に集まり、一万部の読経を始め、怨敵ことごとくの退散を祈った。信玄が出馬して先陣の大将が身延の麓の早川の河原に着き、早川を渡ろうとすると川の水が増して波が瀬の杭を打って岸を洗うことおびただしく、先陣の軍勢は進むことができなかった。身延の峰を見ると旗が天に翻り、木の陰、山の陰に兜の星を輝く軍兵が雲霞のごとく見えた。武田は案に相違したので信玄が病気だといって甲府に帰った。その夜先手の惣頭士大将の夢に、身延の鎮守の七面宮が女体で甲冑を帯びて九百八千の夜叉を従え、仏塔破却の大将を射ると弓矢を放った。その矢が信玄の口に入るのを見た。果して信玄は口の中を煩ったという。 |
早川渓谷について |
思親閣
このお山は身延の嶺と称し、蓮華の峰ともよばれる。この地こそ身延山の頂であり日蓮大聖人御在山の間、弟子達と節々として登山せられ、はるか遠く故郷房州の方を拝され御両親を慕い、恩師に思いをはせられた霊地であります。 |
久遠寺には子供の頃一度行ったことがあるのですがほとんど覚えていなかったので今回立ち寄りました。元旦ということもあり身延町総合文化会館脇の臨時駐車場に車を止めてシャトルバスで現地に向いました。山門、久遠寺、奥の院、日蓮聖人御墓など一通り参拝しましたが、周辺には坊や寺が多数存在しまるで高野山や比叡山のような雰囲気でした。さすがは日蓮宗総本山です。 |
御廟塔
千鳥破風造り、御所向拝丸太建築檜皮葺のこの拝殿は昭和17(1942)年に、身延山の材木を用いて、大阪寺院信徒連合会の丹誠によって建立されました。奥の石造八角塔は日蓮聖人の御遺骨を火葬の灰とともに納めた御廟塔で、この塔の中には古い五輪の墓があり、その下の岩盤に掘削された方形の石室に御遺骨が納められていました。この御廟塔は昭和16(1941)年に尾張の信徒の丹誠によって造立されたものです。11世日朝上人の代に、将来の発展にそなえた久遠寺伽藍をこのところより現在地に移し造営したとき、常随給仕のため聖人のご遺骨を奉じて現在の御真骨堂にお移しして今日迄に550年を経ていますが、この御廟塔にも御遺骨の一部と火葬の灰とが納められています。
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