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埼玉県秩父市

広見寺

2013年01月04日

大林山廣見寺惣門

惣門は、桁行2.54m、梁間2.12m、切妻造、茅葺型銅板葺の禅宗様四脚門で、17世紀の造営と考えられる。
この門は、随所に中世の手法を用い、門に調和した妻飾り、茅葺型屋根の堂々とした外観は、県下でも優位の四脚門である。
また門には江戸時代の渡来僧東皐心越禅師により書かれた「大林山」の扁額が掲げられている。
(看板資料より)


三門

当廣見寺は、今から凡そ六百年前、明徳2(1391)年、本寺岩手県水沢市正法寺二祖月泉良印禅師の高弟、天光良産禅師によって開かれた秩父曹洞宗発祥の寺である。その後、二世東雄朔方大和尚、三世端山守的大和尚が進住し秩父市を合わせて四十ヶ寺という廣見寺教団の基を築いた。
しかしこの六百年の歴史はただ平坦なものではなく、多くの荒波を潜り今日に至っている。戦国時代武田軍の兵火、吉田町清泉寺への従属、享保18年の大火、明治維新の廃仏毀釈、大正2年の火災、そして戦後の農地解放と寺の基盤を揺るがすいくつもの障害を乗り越えて六百年の年輪を刻んできたのである。先の大正2年の大火では、総門を除くすべての伽藍を焼失し、長く険しい復興事業が始められたのである。幸いにも檀信徒の理解を得て、大正7年逸早く本堂が再建され、続いて昭和12年大書院、同24年梵鐘再鋳、同33年開山堂兼位牌堂、同56年小書院と次々再建され往年の景観を取り戻した。
平成時代に入り、俄かに三門再建の気運が高まり、平成6年寺檀協議の結果、三門再建の大事業が開始された。翌年3月第1回建設委員会が開催され、根岸恒一氏を建設委員長に選出し、2億円余りの予算が決定された。同年秋、寄付金勧募が始まり、予定額を大幅に上回る浄財が納入された。時恰平成大不況の折、檀信徒の三門再建の雄志がなければ達成しえなかったであろう。有り難き哉。同9年10月上棟式、10年6月仁王尊搬入と着々と工事は進められ、10月三門はめでたく完成した。そして同11年11月21日、大本山総持寺貫首板橋興宗禅師を大導師に迎え、檀信徒歓喜の中落慶式が挙行された。
この三門は、前住職正法寺57世山主大謙大和尚によって「飛龍門」と名付けられた。廣見寺の開山縁起に、良産禅師が妙見菩薩の化身である龍を化導し、龍はその御礼にこの寺の敷地を寄進し永遠に寺を護持すると言って、荒川の淵に飛び去ったという話があり、そこから命名されたものである。
三門が再建され、境内も寺の景観も一新し、往年の雄姿を取り戻すことができた。これからはこの貴重な伽藍を護持し檀信徒の心のよすがとなるべく精進努力していく決意である。
終わりにこの三門再建事業に関わった多くの方々に心より感謝を申し上げ記念の言葉とする。
(看板資料より)


廣見寺本堂

廣見寺本堂額縁
明治29(1896)年、下郷笠鉾は、三層の花笠、万燈等を付した秩父地方最大の笠鉾として完成した。
大正3(1914)年の電線架設に伴い、大正6年から現在の二層の屋型で曳行することになった。
笠鉾の部品は払い下げられたが、万燈は昭和15年に当寺の檀家から「覚皇殿」と刻まれた扁額として奉納された。額縁は169cm×94.5cm、銅材に「波に千鳥」の彩色で笠鉾の変遷を知る上で貴重な資料である。
(看板資料より)

 

 
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