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山梨県富士吉田市

北口本宮富士浅間神社

2010年01月01日

北口本宮冨士浅間神社本殿

北口本宮冨士浅間神社は、富士吉田口登山道の起点にあたる諏訪の森に鎮座しています。境内には、国の重要文化財に指定されている本社本殿・摂社東宮本殿・同西宮本殿の三棟をはじめ、文化財指定を受けている拝殿、幣殿、および神楽殿、書院等があります。
拝殿の前には、県指定の天然記念物の大スギ(吉野スギ)もそびえています。
戦国時代以後、富士山登拝が盛んになると、その登山拠点としてこの社の地位は一層向上し、近世以降は富士講の隆盛を背景として境内はさらに整備され、今もその威容を誇っています。
(看板資料より)

北口本宮冨士浅間神社本殿
祭神 木花開耶姫命、天津日高彦火瓊々杵命(あまつひこひこほににぎのみこと)、大山祇命(おおやまづのみこと)。元和元(1615)年、谷村城主鳥居土佐守成次により造営され、その後延宝6(1678)年、領主秋元但馬守喬知の修造を経て享保19(1734)年より江戸の富士講大先達(だいせんだつ)村上光清により大修理が加えられた。
社殿は入母屋造で唐破風の向拝を付ける。正面は一間、側面と背面は二間の割り付けで、擬宝珠(ぎぼし)高欄を回し、正面には七段の登高欄を付ける。身舎は丸柱で外陣と内陣に分れ、外陣は格(ごう)天井、内陣は鏡天井で、全て金箔を置き、彫刻には極彩色を施し、正面扉には松と鶴を画く。向拝は角柱で頭貫(かしらぬき)中央には蟇股(かえるまた)を置き木鼻は獏、身舎と結ぶ海老虹梁(ごうりょう)の木鼻は獅子である。欄間、唐破風妻(からはふうつま)、虹梁上など全て彫刻を施し、柱は黒漆、彫刻には極彩色を施す。屋根は檜皮葺(ひわだぶき)二軒繁垂木(しげたるき)で破風には鏑懸魚(かぶらげぎょう)を置く。全体要所には飾り金具、装飾模様を付け山梨県では類を見ない豪華、華麗な桃山期の特色と多様な技法を見せる。
昭和48年から2年にわたって解体修理を行った。
(看板資料より)

駐車場は既に満車で入れず、係員に神社の裏に行くように言われ運良く神社の裏の駐車場に車を止めることができました。表側にまわってみると既に大勢の人が初詣に訪れていて参拝のための長蛇の列ができていました。諏訪神社を経て参道を逆に歩き一度正面入口にまで来ましたが人が途絶えることなく訪れていました。入口の右側の看板には「武田信玄公戦勝祈願所」と書かれていました。その後再び参道を戻って来て本殿の東側に行ってみると武田信玄公奉建重要文化財東宮という看板を発見し、東宮、西宮を参拝しました。

@東宮本殿は正殿の東側にある一間社流造檜皮葺の建築物で、永禄4(1561)年武田信玄の再興といわれる。
A武田信玄が寄進した鐘があり、下に石が敷いてある。
B文明8(1476)年に武田家と駿河の今川家との間で戦争があり、古い書類が焼失した。永禄8(1565)年に武田信玄が、百年以内に昔のように社領をすると願文を出し、そのごとく元亀3(1572)年に荒れ田を開いて今の吉田村を神戸代とし、ここに住居を移した。そして6・7月の富士参詣の時には、諸国の出店や市が許されたので大変賑わった。
(山梨県の武田氏伝説より)

諏訪神社


北口本宮冨士浅間神社のスギ

地際の南側が少し腐朽しているが、樹勢は良好であり、旺盛である。県指定天然記念物の「冨士浅間神社の大スギ」ほどではないが、根張りが発達し漏斗を伏せたような形をしている。
県指定の大スギは「冨士太郎杉」、この木は「冨士次郎杉」と呼ばれ、広く市民に親しまれており、市内の代表的なスギの巨樹である。
大きさは次のとおり。
一 露出根張り 17.2m
二 幹根境の周囲 11.8m
三 目通り幹囲 7.8m
四 樹高 30.0m
五 枝張り 東5.5m、西7.0m、南7.4m、北9.0m
(看板資料より)


北口本宮冨士浅間神社 東宮本殿

祭神 天津日高彦火火出見命(あまつひこひこほほでみのみこと)、富士権現とも呼ばれた。貞応2(1223)年、北条義時の創建とも伝えられるが、現在社殿は永禄4(1561)年武田信玄が川中島合戦の戦勝祈願して浅間本社として造営したものである。
その後文禄3(1594)年に浅野氏重、元和元(1615)に鳥居成次が修理し、さらに慶安2(1649)年と延宝6(1678)年には秋元氏、享保19(1734)年には村上光清による修理が加えられた。
本殿は身舎梁間一間、桁行一間で全面に一間の向拝をつける一間社流造(いっけんしゃながれづくり)の形式である。柱は床下部八角の丸柱を用い、高欄を回した縁と登高欄(のぼりこうらん)付五段の階を持つ。屋根は檜皮葺(ひわだぶき)で身舎からそのまま向拝まで延び破風には鏑懸魚(かぶらげぎょう)をつける。この様式は向拝頭貫の蟇股(かえるまた)の彫刻とともに室町時代の手法を残すものである。外観の要所に施した装飾には桃山時代の影響が見られる。向拝柱にある金具の卍は村上講社の講印であり、藤の紋章は村上家の紋であるので、光清修理の時付けられたものであろう。
昭和27(1952)年解体修理を行った。
(看板資料より)


北口本宮冨士浅間神社 西宮本殿

祭神 天照大神、豊受大神、琴平大神。文禄3(1594)年、谷村城主浅野左衛門佐氏重により東宮に替わる本殿として建立されたが、元和元(1615)年、鳥居成次の本殿建立により現在地に移され西の宮となった。その後享保19(1734)年村上光清により大修理が行われた。
全体の形式は東宮と同じ一間社流造(いっけんしゃながれづくり)であるが、両側面と背景は二間で一間の向拝をつける。身舎全面と側面には刎高欄(はねこうらん)付きの縁を回し、全面には登高欄付の七段の階をもうけている。身舎は床下八角の丸柱、向拝は面取りの角柱で頭貫中央に蟇股(かえるまた)を置き、木鼻には獅子と獏の彫刻を置く。蟇股、木鼻には極彩色が施され、細部に渡って装飾、飾り金具が用いられているが、向拝柱の飾り金具には村上光清の紋である卍と藤の紋がつけられているので光清修復の時のものであろう。屋根は檜皮葺(ひわだぶき)、二重軒(ふたのき)付で破風に鏑懸魚(かぶらげぎょう)をつけている。全体に華麗な桃山前期の建築意匠を伝え、荘厳な本殿建築に向っての流れを感じさせるものである。
昭和39(1964)年解体修理を行った。
(看板資料より)

 

 
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