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岐阜県恵那市

希庵塚

2014年03月22日

高僧希庵禅師
希庵禅師は室町時代末、快川国師とともに臨済(宗)二大徳(高僧)として名声を天下に馳せた高僧である。希庵は京都の人で建仁寺の月谷禅師に従って出家し、各地を巡って修業した。愚渓寺(可児郡御嵩町)の明叔禅師の高徳に心うたれて参禅し、ついにその法を嗣ぎ、明叔の命に従って京都妙心寺の塔頭大心院に入った。
永禄3(1560)年勅を奉じて大本山妙心寺に入り、管長職を5度もつとめ、名声は高まった。希庵は雪江の定めた一住三年の制を一住一年に改めて同門出世の道を開いた。希庵は大円寺(岩村町)、禅昌寺(益田郡萩原町)、恵林寺(山梨県塩山市)などの住職もつとめた。大円寺は永保寺(多治見市)愚渓寺とともに東美濃三名刹とよばれ、美濃遠山氏の菩提寺である。禅昌寺は天下の十刹古禅寺として知られる。恵林寺は武田信玄の菩提寺で信玄は礼を尽くして希庵を迎え永禄7(1564)年には信玄の生母大井氏の十三回忌法要を営んだ。
希庵は恵林寺から妙心寺へ戻り、更に大円寺へ再度迎えられた。信玄は希庵に対し恵林寺へ迎えようと何度も使者を送ったが希庵は頑として拒絶したのでついに怒った信玄は秋山伯耆守に命じて3人の刺客を送って殺害した。殺害のもう一つの理由は、天下を狙う信玄は既に肺を病んでおり、希庵はそれを知っていたことから口封じに抹殺したのである。
元亀3(1572)年11月26日、大円寺を脱出した希庵は飯羽間の橋上で供の者と一緒に殺害されたが享年70歳前後であった。いまその橋を希庵橋という。里人が橋の西の丘上に葬って希庵塚とした。
3人の刺客は半月を経ずして気が狂ったり、狂気した馬から落ちて死んだと甲陽軍鑑は伝えている。希庵には三法嗣があり、それぞれ発展したので希庵の法脈は今も灯っている。
(資料館資料より抜粋)

大円寺の名僧希庵玄密の墓です。元亀3(1572)年武田信玄の軍に攻められて岩村城主遠山氏の菩提寺の大円寺は炎上。希庵禅師は逃れましたが、この近くの橋上で刺客によって殺されました。希庵禅師は京都の妙心寺の管長、飛騨禅昌寺の住職もした名僧です。
(看板資料より)

 

 
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