下克上の戦国時代、天文22(1553)年から永禄7(1564)年の11年間、北信濃の覇権を懸けて激しい攻防を繰り返した、越後の上杉謙信と甲斐の武田信玄。
上杉謙信は、大軍を山狭に潜ませるには極めて都合が良く、且つ飲み水として天然の湧水が出る各所(陣屋識窪、宮王窪、道川窪、明徳水源他)に出る、戦略上最適な立地の此処に陣を張り、大峰城、葛山城に待機する味方の軍勢に向けて、ほぼ一直線内に在る自軍の春山城を中継の狼煙台に使って作戦の指揮を執った。
全5回に及ぶ両雄の戦いの内、最も激しかったのが永禄4(1561)年9月の四回目の戦いであった。
謙信は此処の陣を発って、妻女山に本陣を構え、信玄は自ら本体を率いて茶臼山から八幡原に布陣する。此処に、上杉軍と武田軍が「川中島」を挟んで対陣した。
このとき謙信は早暁、妻女山からの奇襲作戦で朝霧の「雨宮の渡し」(千曲川)を渡り、八幡原の本陣めがけて急襲を仕掛け、上杉軍と武田軍の軍勢が烈しく衝突した。
戦いは大乱戦となり、此処に至りて戦いの前半真っ只中、謙信は、信玄目掛けて総本陣へ突入。謙信・信玄の二人の「直戦」が展開された。古書の「甲信越戦録」にはこの時の戦況を「…上杉の12人尾花の穂先を抜きつれて切り込むを、12人は君の向こうに屏風となりて火花を散らして相防ぐ、謙信公は左の方へ廻り、只一騎にて床机の元へ乗りつけて、三尺一寸小豆長光にて切付けるを、信玄腰をかけながら軍配団扇にてはつしと受止め、たたみかけて九太刀なり、七太刀は軍配団扇にて受けられしが、ニ太刀は受外し肩先に傷を受け玉う。」とある。
上杉軍1万3千、武田軍2万の軍勢が烈しく衝突し、両軍1万人以上の戦死者を出した壮絶な戦いでありました。
然し、此のことを「甲越川中島合戦」と云うが、その先鋒には信州の「地侍」も用いられていたので、信州人同志の血戦を何回もさせられていたのである。従って川中島合戦と云う観光の表の蔭に、覇権制覇の渦に巻き込まれ、戦場となった川中島一帯北信濃の豪族達、民百姓は、非常な艱難辛苦をなめさせられ、人、物とも多大な犠牲を払わされてきたことも我々は忘れてはならないことである。
(看板資料より)
天王山口のところで入手した若穂太郎山トレッキングコースのパンフレットによるとリンゴ畑の一番奥に上杉謙信陣屋識跡というのがあるとのことで行ってみました。周辺には謙信道などもあるようでした。説明が書かれた看板もありました。
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