安国寺恵瓊は天文7(1538)年、安芸国守護武田氏の一族として生まれた。天文10(1541)年、大内氏との戦いで武田家が滅亡し、当時4歳だった恵瓊は安国寺に身を寄せることとなる。
以降12年間、当寺で仏道修行に精進し、16歳のときに生涯の師と仰ぐこととなる笠雲恵心に巡り会う。この直後、恵瓊は京都東福寺に入り、五山禅林の人として修行を重ねた。
そして恵瓊35歳の時、正式に安芸安国寺の住持となり、この頃から毛利家の政治にかかわる外交僧として活躍を始める。
羽柴秀吉が率いる織田軍が中国地方に侵攻してきた際には、毛利氏の使者として秀吉との交渉にあたり、この交渉を通じて秀吉との繋がりが深まったといえる。やがて天下人となった秀吉は恵瓊を直臣の大名に取り立て伊予国2万3千石を与えた。また恵瓊は建仁寺の方丈移築をはじめ東福寺の庫裏の再建など旧来の建築物の修復に関与し、多くの功績を残している。
その恵瓊は慶長5(1600)年、関ケ原の合戦において主家毛利氏を石田三成らの西軍に味方させ、自身は西軍の最高首脳として暗躍するも小早川秀秋が東軍に内応したこともあって、西軍は敗退。恵瓊は毛利家西軍荷担の罪で同年10月1日京都六条河原にて斬首され63歳の波乱の生涯を閉じる。
この首塚はその恵瓊の首を建仁寺の僧侶が持ち帰り、ゆかりのある当寺の方丈裏に葬ったものである。
(看板資料より) |