河尻塚 |
2013年09月01日 |
この地は織田信長の家臣河尻肥後守秀隆の首塚とも、また彼の屋敷跡とも伝えられている。織田信長が武田氏討伐の軍を起したとき(1582年)河尻秀隆は軍目付として活躍し、甲斐と信濃諏訪郡の領主となった。背後の信長の権力を利用し威圧的な政治を行ったと伝えられる。しかし本能寺の変により織田信長が殺害されると、秀隆に反感を抱いていた武田家の旧臣や農民等の一揆の攻撃を受けこの地に埋葬された。埋葬される時秀隆は圧政の恨みをかってさかさまに埋められたことから「さかさ塚」の異名ももつ。
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2005年01月09日 |
この地は織田信長の家臣河尻肥後守秀隆の首塚とも、また彼の屋敷跡とも伝えられている。織田信長が武田氏討伐の軍を起したとき(1582年)河尻秀隆は軍目付として活躍し、甲斐と信濃諏訪郡の領主となった。背後の信長の権力を利用し威圧的な政治を行ったと伝えられる。しかし本能寺の変により織田信長が殺害されると、秀隆に反感を抱いていた武田家の旧臣や農民等の一揆の攻撃を受けこの地に埋葬された。埋葬される時秀隆は圧政の恨みをかってさかさまに埋められたことから「さかさ塚」の異名ももつ。 河尻塚の存在を知り、それが信玄火葬塚の近くにあるということでしたので信玄火葬塚をめざして車を進めました。信玄火葬塚の前には甲府市北部幼児教育センター及び北部コミュニティ防災センターというものがあり、そこに駐車場があったので車はそこに止めさせてもらいました。ちょうどそこに来ていた夫人に河尻塚の場所を聞いてみましたが河尻塚がなんなのか知らなかったようでした。その後別の男性にも聞いて場所を教えてもらいました。駐車場から校庭のようなところに下って行くと河尻塚への看板がありますが、右の方に行って金網の外に出ると人家との間の狭い空間に河尻塚と看板がありました。看板のところから見ると変な方向を向いていますが、左側に下りていってそこから見ると写真のような感じでこちらが正面だと思います。
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