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静岡県静岡市

川入城

2014年12月07日

常園寺

川入城は、今川氏の国人であった由比氏の本拠地と考えられる。由比氏は戦国期に最盛期を迎え、天文期には光詔、光教、永禄3(1560)年前後には正信を当主としたが、桶狭間の戦に光教・正信も討死したため、子の出羽守正純が城主となった。永禄11年武田軍の侵入により、本貫地を離れ、今川氏真に従って掛川城に移り、永禄12年3月、掛川城の攻防戦では徳川軍と戦い討死した。
(日本城郭大系より)

現在も使われている井戸

天文15年創建
由比周防守源左衛門光詔
甲斐武田信玄の為に元亀元年正月26日落城す。全兵討死。女子達は常園寺北側の崖に身を投じたと言われ、その下の畑からはくし、かんざし等が発見された、その供養のために建立する。
(石碑記載文章より)

花沢城天文15年頃創建
背後には浜石岳、前面には由比川とその支流があり、いわば自然なる天下の険を巧みに利用してつくられた典型的な山城である。
戦国時代の今川氏の出城の一つであったと考えられ、由比氏一族の由比周防守源左衛門光詔が、今川氏の命により築城したものといわれている。城そのものの規模は大きくないが、自然の地形を活かした城としては駿河の安倍城に比適するといわれ、今川氏はこの城によって甲斐武田氏の侵略を防ごうとしたものと考えられる。
惜しむる哉、1541年裏山よりの武田勢の攻撃により全兵討死し、廃城したといわれている。
(石碑記載文章より)

郭の建物の礎石に使われた石

常園寺裏の畑



2012年02月19日

常園寺

川入城は、今川氏の国人であった由比氏の本拠地と考えられる。由比氏は戦国期に最盛期を迎え、天文期には光詔、光教、永禄3(1560)年前後には正信を当主としたが、桶狭間の戦に光教・正信も討死したため、子の出羽守正純が城主となった。永禄11年武田軍の侵入により、本貫地を離れ、今川氏真に従って掛川城に移り、永禄12年3月、掛川城の攻防戦では徳川軍と戦い討死した。
(日本城郭大系より)

常園寺裏の畑

天文15年創建
由比周防守源左衛門光詔
甲斐武田信玄の為に元亀元年正月26日落城す。全兵討死。女子達は常園寺北側の崖に身を投じたと言われ、その下の畑からはくし、かんざし等が発見された、その供養のために建立する。
(石碑記載文章より)

花沢城天文15年頃創建
背後には浜石岳、前面には由比川とその支流があり、いわば自然なる天下の険を巧みに利用してつくられた典型的な山城である。
戦国時代の今川氏の出城の一つであったと考えられ、由比氏一族の由比周防守源左衛門光詔が、今川氏の命により築城したものといわれている。城そのものの規模は大きくないが、自然の地形を活かした城としては駿河の安倍城に比適するといわれ、今川氏はこの城によって甲斐武田氏の侵略を防ごうとしたものと考えられる。
惜しむる哉、1541年裏山よりの武田勢の攻撃により全兵討死し、廃城したといわれている。
(石碑記載文章より)

 
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