春日城は鹿曲川渓谷の最奥部、鹿曲川と支流細小路川に挟まれた丘陵末端にある。東南西は山稜に囲まれ、北方のみわずかに開け、この谷を下れば天神林城・望月城に通じる。北側崖下に居館跡があり、南方の山中には小倉城・大小屋城・茨小屋城などの詰城または支城を持った大規模な山城であるが、このような規模に拡張されたのは、戦国時代に依田氏が根拠とするようになってからであろう。戦国時代になると、城名も春日之城・三沢小屋・芦田小屋・穴小屋など、『高白斎記』『依田記』『寛永諸家系図伝』などでも、その時々に呼び方はまちまちで、『寛永諸家系図伝』に出てくる三沢之山小屋は、南方の支城をさしたものか、この城かは明らかではない。
ここに根拠を置いた春日氏は、中世、伴野庄春日郷といわれたこの辺りの地頭であったと考えられており、その居館は現在の康国寺あたりで、二重の塁と堀を三方にめぐらせていたといわれ、「堀端小路・金井小路・御新造」の字名を残している。金井は城の水の手である。また、春日本郷北側一帯は屋敷町としての形を残しており、鎌倉時代に形成されたものの跡を受けているものと推定されている。
春日氏については、『諏訪御符礼之古書』に、寛正3(1462)年春日宮太郎丸、文明4(1472)年春日伊豆守宗貞、長享2(1488)年春日左衛門太夫貞重らの名がみえる。詳しいことは不明であるが、佐久と諏訪郡山浦地方を結ぶ交通の要路を押さえていた有力な在地勢力であった。
天文19(1550)年頃、村上義清が押領したのち、芦田に本拠を持つ芦田(依田)信守の支配下に落ち、その子信蕃がここを本拠に活躍するに及んで春日城は歴史の舞台に現れてくる。天正10(1582)年、武田氏が滅亡すると、遠江の二俣にあった信蕃は、徳川家康の命を受けて信濃の佐久に帰り、小諸城に入ってのち春日に帰った。その頃、佐久へは関東の北条氏政の軍が大挙侵入し、佐久の地侍たちは大方これに服したが、信蕃は春日にあって一人これに抵抗した。佐久に侵入した氏政の軍は、役行者越(えんのぎょうじゃごえ)を通って諏訪に入り、甲斐国に出て、家康の軍と対峙したのであるが、信蕃に糧道を断たれたため、和を結び、関東に退いた。
その後、信蕃は春日城を根拠に岩村田城をはじめ佐久の諸城を攻略し、天正11(1583)年の初め、岩尾城攻撃中に弟と共に戦死したが、その功によって子の松平康国が小諸城に入り、佐久一円を領した。曹洞宗金城山康国寺は、松平康真が兄康国追福のために創建したものである。
康国寺西背に屹立する山稜上にある城の軸は、北から南に向いており、北端から小さな郭と腰郭・土塁、二条の堀切を経ると、比高30mほどの急坂となり、この上に副郭が設けられており、秋葉社がある。この南をやや下って二条の堀切の間に郭があり、続いて本郭となる。本郭の南側は土塁に囲まれ、他の三方には石塁が残っている。本郭の南は二条の堀切と土塁を経て副郭に至り、さらに一条の堀切と80mほど登って大堀切があって終る。城の東西は急峻である。浜辺に「小屋口・竹ノ城・勝負田・馬場」などの字名が残っている。
(日本城郭大系より) |