広島市
2009年08月11日
武田氏が銀山城主だったころ、歓喜寺境内に出城を造り、ここに米庫を設けて兵糧を貯蔵していました。しかし、銀山落城につながった平員家の「銀山攻め」の際、兵火にあって米庫が焼失したと伝えられています。そのためか、明治末期ころまで、地中よりたくさんの焼き米が掘り出されたようです。 (広島市ホームページより)