←前のページへ トップページ↑ 次のページへ→

山梨県笛吹市

常楽寺

2014年07月12日

穴山伊予守と一族郎党の廟所

童女のてまり歌にうたわれた「一に花鳥ニに小山三につらいは常楽寺」は、小山城主穴山伊予の悲運を今に伝えています。
穴山伊予守は甲斐源氏で南部領主(南巨摩郡)穴山信懸の次男で信永と名乗りました。当寺は戦国時代で、武田信虎の勢力も安泰でなく、甲斐国内は小豪族が割拠し内乱が続いていました。
武田信玄が3歳になった大永3(1523)年に穴山伊予守は鳥坂峠(芦川村)を越えて侵入してきた南部下野守を花鳥山陣ヶ平で迎撃します。戦況は不利で小山城に退却しますが防戦一方で、余儀なく常楽寺へ入り、今はこれまでと伊予守と一族郎党は自決し生涯を終わっています。
伊予守の高さ76糎の大きな位牌には「東膳院殿玉山鉄公大居士」とあります。位牌は享保21(1736)年に柳沢吉保に仕えた八千蔵村出身の花曲仙左衛門伸名が寄進したものです。戒名から常楽寺は、創建時は東膳寺と呼んだと思われます。
廟所は初め共同墓地の中央近くで東土手側にありましたが、明治21年に薬師堂の東側に移され、さらに現在地への三転しています。
(看板資料より)

 



2007年12月01日

穴山伊予守の墓があるとのことで常楽寺に立ち寄りました。甲斐二宮である美和神社の近くでした。周辺まで来てみると立派な山門があったので車を止めて周辺を歩き回ってみました。すると門の近くに止めてあった別の車の影に隠れていたお墓を見つけることができました。位牌などもあると聞いていたのですが本堂には人気がなかったので近所のお宅で聞いてみました。すると、常楽寺の住職は八代に住んでいて兼務しているとのことでした。今回はこれであきらめることにしました。


穴山伊予守と一族郎党の廟所

童女のてまり歌にうたわれた「一に花鳥ニに小山三につらいは常楽寺」は、小山城主穴山伊予の悲運を今に伝えています。
穴山伊予守は甲斐源氏で南部領主(南巨摩郡)穴山信懸の次男で信永と名乗りました。当寺は戦国時代で、武田信虎の勢力も安泰でなく、甲斐国内は小豪族が割拠し内乱が続いていました。
武田信玄が3歳になった大永3(1523)年に穴山伊予守は鳥坂峠(芦川村)を越えて侵入してきた南部下野守を花鳥山陣ヶ平で迎撃します。戦況は不利で小山城に退却しますが防戦一方で、余儀なく常楽寺へ入り、今はこれまでと伊予守と一族郎党は自決し生涯を終わっています。
伊予守の高さ76糎の大きな位牌には「東膳院殿玉山鉄公大居士」とあります。位牌は享保21(1736)年に柳沢吉保に仕えた八千蔵村出身の花曲仙左衛門伸名が寄進したものです。戒名から常楽寺は、創建時は東膳寺と呼んだと思われます。
廟所は初め共同墓地の中央近くで東土手側にありましたが、明治21年に薬師堂の東側に移され、さらに現在地への三転しています。
(看板資料より)

 

 
←前のページへ トップページ↑ 次のページへ→