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新潟県長岡市

常安寺

2007年11月24日

秋葉神社から階段を降りていくと常安寺の境内でした。大きなお地蔵様は延命地蔵というものでした。本堂の前に来てみると、常安寺が所有しているものの説明板がありました。上杉謙信筆五言対句、紙本著色上杉謙信ならびに二臣像、梵鐘、上杉謙信愛用の兜の前立、上杉景虎安堵状、上杉景勝安堵状です。お寺ではお守などが売られていましたが人がいなかったので呼び鈴を鳴らして来てもらいました。上記のものを見学させて欲しいとお願いしたところ、宝物館などは無いので兜の前立などは預かってもらっているとのことでした。上杉謙信筆五言対句はレプリカのもの、梵鐘は本物が本堂にあるとのことで本堂の中に入れていただいて見学させて頂きました。

上杉謙信愛用の兜の前立
この前立は、謙信公が閲兵や儀式の時に兜に着用したもので、米沢の上杉家より謙信公の位牌とともに、当寺に贈られたものです。
箱書には「飯綱権現御建物」とあり、疾走する霊狐に迦楼羅姿の飯綱権現が前向きに立ち乗っています。狐は真鍮、権現像は青銅の打物に金メッキをしたもので、黄金色に輝いています。
謙信公は信仰心が厚く、数度の川中島の戦いのおり、飯綱山にまつられている飯綱権現に全軍の勝利を祈願し、そして兜の前立として頭上にいただくようになったものと思われます。
(看板資料より)

上杉景虎安堵状
この書状は、景虎(謙信公)が天文20(1551)年、当寺の開基の験として、秋葉三尺坊を管掌する別当という般若院の所有財産と、法用寺(市内表町にあった)の寺領とを寄進した時の安堵状です。
「先年、思いがけない戦争の折の忠信振りは比べものがなかった。それで常安寺の開基の験として、般若院並びに法用寺分を寄進する。永代他からの妨げがないようにこの書状を与える。」と書かれてあります。
(看板資料より)

上杉景勝安堵状
天正6(1578)年謙信公が没すると、養子の景勝と景虎との跡目争いから御館の乱が起き、栃尾城主本庄秀綱は景虎方について戦いましたが、天正8年栃尾城が陥落したことから、栃尾の郷民は不安な日々を送っていました。景勝はそうした郷民の動揺を除くため、翌年当寺に対して、「父謙信が天文20年に常安寺開基の験として寄進した般若院と法用寺の寺領を先例にならって保障する。」という書状を送ってきました。
(看板資料より)

紙本著色上杉謙信ならびに二臣像
この画幅は謙信公が門察和尚に贈ったもので、天正2(1574)年法印和尚となった頃の謙信公が、法衣に金欄の袈裟をつけ胡床に座しています。その前に対面する2人の家臣は盃をのせた衡重と銚子を持った人が直江山城守で、太刀を持った人が鬼小島弥太郎であると伝えられています。この画は、慶長以前の作といわれ、彩色は今なお生き生きとしており、入道謙信と当寺の武家社会の風格が偲ばれます。
(看板資料より)


上杉謙信筆五言対句

当寺は、上杉謙信公が青年期、栃尾城に在城したこと、師と仰いだ瑞麟寺五世門察和尚の開山で、謙信公ゆかりの深いお寺です。
戦国時代の武勇の大名として、関東、北陸の覇者となった謙信公は武勇とともに学を好み、和歌や詩にも長じ、特に書は、青蓮院流の妙手近衛前久(龍山)の教えを受けてその道を極めました。
「忠心懸日月」「孝義重丘山」という謙信公自治筆の五言対句の双幅が、当寺に伝わっています。その書風は、飾り気がなく豊かで力強い筆勢で、正に戦国時代の王者の風格がみられます。
(看板資料より)


梵鐘

この梵鐘は上部に龍頭を載せ、袈裟禅という縦横の帯状の二箇所に撞座をつけた典型的な和鐘で、上杉謙信公が若き日学問と修行をした寺、瑞麟寺の唯一の遺品として当寺に伝わっています。銘文は、四区に陰刻され、一区に「越後国古志郡禅憧山瑞麟禅寺堂前用也」とあり、四区には「大永3年7月19日、願主 檀越 道見」とあり、大永年間の製作と思われます。
(看板資料より)


延命地蔵

右手に錫杖、左手に宝珠を持ち、慈愛に満ちた大らかなお顔で道ゆく人々を見守っています。高さ約4メートルもある市内最大の医師のお地蔵様で、別名導き地蔵ともいわれています。
人々に安心を生み、死後においても救ってくれるということから庶民に最も信頼され、信仰されました。
栃尾の各地で村方騒動が勃発し世情騒然としていた幕末、平安を求めて六十六部講中が全国を回って寄進を集め、万延元(1860)年6月に建立されたものです。
(看板資料より)

 

 
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