慈徳院 |
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武田信春公墓所
寺は大正2年7月の大火で本堂、庫裡等を焼失、寺の由来等を知る古文書類はまったく残っていません。伝えによれば、当寺は武田信玄公より7代前の信春公の館跡にして、応永(1400年代)年間、逸見氏の乱に遭い、萩原山中(現在の柳沢峠周辺)に難を避け、ここに築城して居住するが間もなく逝去、千野の館跡に庵を建て埋没して欲しいという遺言により、現在地に慈徳院(もと自得庵)を建て、後「護国院殿」と刻した供養塔が建立されたと言います。
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寺は大正2年7月の大火で本堂、庫裡等を焼失、寺の由来等を知る古文書類はまったく残っていません。伝えによれば、当寺は武田信玄公より7代前の信春公の館跡にして、応永(1400年代)年間、逸見氏の乱に遭い、萩原山中(現在の柳沢峠周辺)に難を避け、ここに築城して居住するが間もなく逝去、千野の館跡に庵を建て埋没して欲しいという遺言により、現在地に慈徳院(もと自得庵)を建て、後「護国院殿」と刻した供養塔が建立されたと言います。 |
武田信春公墓所
コンビニエンスストアで慈徳院の場所を確認して墓所の方から境内に入っていくと、ちょうど墓所のメンテナンスをしている人がいたので武田信春公の墓の場所を聞いたらすぐに教えてくれました。教えられた通りのところに行ってみると上の写真の通りすぐに分かりました。その後本堂を訪ねてみると住職らしき方がいたのでお話をお聞きしました。当時はまだ武田氏の勢力も塩山周辺だけであったようです。パンフレットのようなものがないか聞いてみたところ、上でも紹介した「柳沢山だより」と、向嶽寺が発行している「塩山」という小冊子をいただきました。
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