←前のページへ トップページ↑ 次のページへ→

愛知県岡崎市

石筒ヶ根古戦場

2014年03月29日

作手亀山城主奥平貞能は、お家存続のために武田方・徳川方の両方に揺れ動いていた。
天正元(1573)年8月20日夜、徳川方に味方することにした一族は、武田勢力の強い作手を脱出し、戦いに有利な宮崎滝山城に向った。
様子を伺っていた武田方の作手古宮城の甘利晴吉は、さっそく追撃を開始し、追いついて一戦となった。夜陰ながらも、小競り合いが亀山城から巴山・石筒ヶ根あたりまで続いたが、奥平方は無事に滝山城に入ることができた。
峠には「安永八年亥八月日 千万町村」と刻まれた大日如来が鎮座している。そのあたりで、さびた刀が発掘されたとも言われている。墓らしい自然石や馬かくしと呼ぶ凹んだ平地が残っていたり、馬乗り場・カンバなどの地名があり、この付近が合戦地であったことを物語っている。
(看板資料より)

石筒ヶ根合戦死者の墓



2005年02月11日

作手の奥平貞能らが武田勝頼を裏切って亀山城から宮崎の滝山城(亀穴城)に逃げる際に、迫ってきた武田軍と戦った所といわれている。石筒ヶ根古戦場には祠があり、近くには大日如来もあるとのことでしたが、祠にたどり着くことはできませんでした。
上の写真は「石筒坂古戦場跡へ」と書かれた看板のところを写したものですが、額田町の千万町から作手に向途中にとあるお宅で行き方を教えてもらい、白髭神社を左に入っていって悪路を進んでいったところが上の写真のところです。この先は更に道路が狭くて荒れており、残念ながら断念せざるをえませんでした。


滝山城(亀穴城)
亀山城

 

 
←前のページへ トップページ↑ 次のページへ→