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山梨県笛吹市

石和八幡宮

2014年07月12日

第12代景行天皇の御弟、稚城瓊入彦命は東国視察からやがて甲斐の国に入られここに行宮を建て一年有余滞在された。命に随行しこの地を治めた和爾臣(わにおみ)氏は、のちに行宮跡に命と一族の始祖、天足彦国押人命の御霊を合わせ祀って一族の氏神として奉祀した。
時は下って今から八百有余年前甲斐の国北部に甲斐源氏が勃興しやがて石和の地に進出した武田信光は石和五郎信光と称し建久3(1192)年先の古社に鎌倉の鶴ヶ岡八幡宮を勧請し石和八幡宮と奉称し甲斐源氏の総鎮守と定めた。造営にあたっては鎌倉の将軍・源頼朝から五百貫の寄進と「うつしては同じ宮囲の神垣に汲みてあいかむ美たらしのみず」の和歌の奉納があったと伝えられている。以来武田氏の尊崇極めて厚く源氏が最も重んじた「射法相伝」の儀式はすべてここで行われた。
天正10(1582)年織田信長が甲斐に侵攻し武田氏は滅亡した。その折当八幡宮は焼き討ちにあい社殿社宝尽く失った。翌年徳川家康が入甲して近郷九ヶ村に十八石の神領を献じて再建した。
以来浅野幸長はじめ歴代領主・甲斐勤番支配・代官はここに参拝することが例とされた。
当時本殿は三社別殿で中央に八幡大神左右に上古二神が祀られていたが安永3(1774)年の改築で一棟に合祀された。
往時は総回り50間に及ぶ泉水に築山・石橋を配し杉檜の巨木の森に13の摂社と神官屋敷を具えた荘厳な社であった。
明治40年の大水害で辛うじて本殿拝殿隋身門は残ったものの他は流失埋没し森は枯死し荒廃しつぃまった。氏子の長年の努力で復興し祭祀が守られて来たが平成18年10月隋身門を残して焼失した。唯一豊臣時代から江戸時代の絵馬の献額11点(市指定文化財)が現存している。
幸い広く地域の奉讃を得て新社殿が造営され平成21年12月遷座式が挙行された。
当八幡宮は、国家鎮守・衆生済度の菩薩神・聖母菩薩神の八幡信仰の社であるとともに甲斐の国発祥の上古の時代からの歴史を秘めた氏神の杜である。
(看板資料より)

八幡宮信仰は、源氏一門がとくに尊崇した神であり、始祖頼信が永承の頃(1050年頃)石清水八幡宮へ奉納した願文によっても清和源氏の氏神であったことがわかる。八幡宮は、応神天皇または八幡神(三神一体)の神に対する信仰で、源氏がとくに武神として崇め、神社の配置形式は独特な八幡形式を持っている。頼信の子頼義は石清水の社前で、長子の加冠の礼を行った。これが八幡太郎義家である。康平6(1063)年、頼義は石清水八幡宮を鎌倉に勧請して鶴岡八幡宮とした。当社の社記によると、武田氏の祖信義の子信光(石和五郎)が建久3(1192)年、鶴岡八幡宮をこの地に勧請して、石和八幡宮として郷の産土神とした。祭神は応神天皇、仲哀天皇、神功皇后の三神であり、武田氏の尊崇あつく、甲斐源氏の射法相伝の儀式はすべて当社で行われたといわれる。
永正16(1519)年、武田信虎が川田の地から躑躅ヶ崎に居館を移すとともに、当社を府中に勧請して府中八幡宮としてからも、武田家の厚い崇敬を受けて栄えたが、天正10(1582)年、武田家滅亡のおり、織田軍の兵火にかかり社殿のすべてを灰じんに帰し、翌年徳川家康の寄進によって社殿が再興されたといわれる。
現在の建物は安永3(1774)年、従来の三棟を一棟にして建立されたもので、拝殿、随神門ともに石和最古の建築である。浅野長政以来歴代の国主、甲府勤番支配は当社に参拝することを例とし、本殿には記録が納められている。また拝殿には、豊臣時代の奉納と思われる竜、駒の一対、亀山上皇湯立図、加藤清正、小西行長と朝鮮王宣和との講和図一対の幅五尺もある大きな絵馬があり、この他江戸時代の絵馬多数もあって歴史上貴重なものとされている。
(看板資料より)

本殿

 



2004年08月14日


八幡宮信仰は、源氏一門がとくに尊崇した神であり、始祖頼信が永承の頃(1050年頃)石清水八幡宮へ奉納した願文によっても清和源氏の氏神であったことがわかる。八幡宮は、応神天皇または八幡神(三神一体)の神に対する信仰で、源氏がとくに武神として崇め、神社の配置形式は独特な八幡形式を持っている。頼信の子頼義は石清水の社前で、長子の加冠の礼を行った。これが八幡太郎義家である。康平6(1063)年、頼義は石清水八幡宮を鎌倉に勧請して鶴岡八幡宮とした。当社の社記によると、武田氏の祖信義の子信光(石和五郎)が建久3(1192)年、鶴岡八幡宮をこの地に勧請して、石和八幡宮として郷の産土神とした。祭神は応神天皇、仲哀天皇、神功皇后の三神であり、武田氏の尊崇あつく、甲斐源氏の射法相伝の儀式はすべて当社で行われたといわれる。
永正16(1519)年、武田信虎が川田の地から躑躅ヶ崎に居館を移すとともに、当社を府中に勧請して府中八幡宮としてからも、武田家の厚い崇敬を受けて栄えたが、天正10(1582)年、武田家滅亡のおり、織田軍の兵火にかかり社殿のすべてを灰じんに帰し、翌年徳川家康の寄進によって社殿が再興されたといわれる。
現在の建物は安永3(1774)年、従来の三棟を一棟にして建立されたもので、拝殿、随神門ともに石和最古の建築である。浅野長政以来歴代の国主、甲府勤番支配は当社に参拝することを例とし、本殿には記録が納められている。また拝殿には、豊臣時代の奉納と思われる竜、駒の一対、亀山上皇湯立図、加藤清正、小西行長と朝鮮王宣和との講和図一対の幅五尺もある大きな絵馬があり、この他江戸時代の絵馬多数もあって歴史上貴重なものとされている。
(看板資料より)

 

 
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