医王寺城 |
2014年05月03日 |
「信陽雑誌」享禄元(1528)年の条に「当時佐久小県攻戦之地散在士」として数えあげられている中に、村上源五郎顕胤の名があり、その註に「不詳、或曰臼田城跡」としてある。これを受けて「南佐久郡古城址調査」は、文明16年、村上氏佐久に侵入し、大井氏を降したが、其後延徳元年6月甲斐の武田氏が佐久に侵入するにおよび、村上顕国は兵を出して佐久の諸豪を援けて武田氏の軍を撃退した。是において佐久の諸豪多く村上氏に属するようになった。佐久地方が村上氏に属するに至り、顕国はその子顕胤をして臼田城即ち此所に医王寺城と称する城を築いて、其を居城として佐久地方の押えとし武田氏に備えたものではないか」と述べている。なお井出豊前守以次の子次繁が天文12(1543)年頃、駿河国富士郡井出村狩宿から臼田の寺久保の古屋敷に移って来て築いたのがこの城だとする説もある。「塩山向岳禅庵小年代記」には、天文9年に武田信虎が佐久に侵入し、臼田・入沢の城をはじめ数十城を破って前山城に在陣したとある。 |
本丸と古峰神社の間にある大きな堀切
古峰神社
本丸周辺の郭
本丸周辺の郭
医王寺城全景
医王寺
2009年05月05日 |
「信陽雑誌」享禄元(1528)年の条に「当時佐久小県攻戦之地散在士」として数えあげられている中に、村上源五郎顕胤の名があり、その註に「不詳、或曰臼田城跡」としてある。これを受けて「南佐久郡古城址調査」は、文明16年、村上氏佐久に侵入し、大井氏を降したが、其後延徳元年6月甲斐の武田氏が佐久に侵入するにおよび、村上顕国は兵を出して佐久の諸豪を援けて武田氏の軍を撃退した。是において佐久の諸豪多く村上氏に属するようになった。佐久地方が村上氏に属するに至り、顕国はその子顕胤をして臼田城即ち此所に医王寺城と称する城を築いて、其を居城として佐久地方の押えとし武田氏に備えたものではないか」と述べている。なお井出豊前守以次の子次繁が天文12(1543)年頃、駿河国富士郡井出村狩宿から臼田の寺久保の古屋敷に移って来て築いたのがこの城だとする説もある。「塩山向岳禅庵小年代記」には、天文9年に武田信虎が佐久に侵入し、臼田・入沢の城をはじめ数十城を破って前山城に在陣したとある。 麓の医王寺でお話を聞かせてもらいました。4,5年前に地元の里山を愛する会有志で寺の裏から登る登山道を整備したがその後はあまり使われてないそうです。素人が登るのであれば北側にある橋を渡って尾根伝いに行けば獣道があるとのことで上まで登れるそうです。今回は既に足を痛めていたので登りませんでしたが、次回アタック時の参考にさせて頂きます。
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