一瀬越前守直忠の墓石 |
2006年12月30日 |
伊那市旧長谷村の市野瀬は高遠から美和湖を経て少し南に行ったところになります。事前の調査ではこの市野瀬というところに、市瀬主水入道直繁の墓、市瀬の古城(市野瀬熊野城跡)というのがあるとのことで今回訪れました。 |
一瀬越前守直忠は剃髪後は、一瀬主水入道直繁と称した。その墓石は元来市野瀬の城山に続く峯にあったものである。かつて市野瀬の村中を流れる粟澤川の度々の洪水に悩まされていたのを高遠藩の許可を受け天保13(1844)年城山の峰つづきを掘り抜き粟澤川を直接三峰川に注ぐよう流れを全く変えたものである。それ以来そこを「掘り抜き」と呼んでいる。その工事の際、現在地に移されたものである。 熊野城のあとに市野瀬城を築いた一ノ瀬越前守直忠は、高遠領下に属して郡下諸城主と共存共栄で暮らしていましたが、武田信玄の侵攻を受け、天文18年(1549)の青柳峠の戦いで壮烈な戦死を遂げました。よって彼の墓、宝筺印塔は約450年前に建立されたことになります。 |
更にその後、城山を見学してから市野瀬熊野城や市瀬古城の場所を地元に人に聞きまわっていたときに紹介していただいた方のお宅で資料(長谷村の文化財)などをもとに詳しいお話を聞かせてもらうことができました。現地にいる間はよく分かっていなかったのですが、情報を整理してみると次のような感じであることが分かりました。 |
また、見せていただいた「長谷村の文化財」には一瀬越前守直忠最後の様子が書かれていたので次に簡単に紹介させていただきます。 |