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福井県小浜市

発心寺


2009年08月13日

武田元信の代までは名門の守護大名として一応の面目は保っていたが丹後での敗戦、一族逸見氏の叛乱など元光の相続した頃は国内外ともに不安定な情況となっていた。守護館は一色氏以来西津にあったと考えられるが、平館であり防備の点では不完全であった。このため武田元光は大永2(1522)年小浜市街地の南側後瀬山に築城を始めたのである。海抜168メートルの山頂に主郭を配し南北500メートル、東西350メートルの範囲に城郭は広がっている。
この頃京都では細川高国が実権を握り11才の将軍義晴を擁して12代とし、自らは管領となっていた。武田元光はこの高国に与して上洛。しかしこの戦に敗退し、丹後にも敗戦の情報が伝わり、海賊衆が若狭の浦々に襲来した。
天文元(1532)年元光は入道し、信豊に相続させようとしたがなかなか実現しなかった。武田氏最大の被官粟屋元隆が反対したからである。彼は武田一族の中務少輔信孝を擁して兵をあげた。天文7(1538)年信豊は元隆を討伐し粟屋元隆は丹波へ出奔した。引退後の武田元光は自ら再興した発心寺に住み墓地も同寺の裏山にある。
(高浜町誌より)


木造武田元光像

武田大膳太夫元光は、若狭守護職武田元信の子として誕生、大永元年(1521)父の没に伴って家督を相続し、同2年には後瀬山に居城を築き、その山麓に守護館を移し、戦国大名としての体制を整えたと考えられている。
 元光が守護職にあった時期は若狭国内外ともに大乱に見舞われた時期で、享禄3年(1530)出家して大膳太夫入道宗勝となって発心寺に隠居した。その後も国政の実権を掌握していたようで、天文8年頃に家督を実子の信豊に譲り、ついに天文20年(1551)に没し同寺背後の墓所に葬られた。法号は、発心寺殿天源宗勝大居士である。
 発心寺には、同寺の開基となった元光の法衣姿の木像が伝えられている。この像は、若々しい雰囲気を感じさせるが、着衣は同寺に遺される頂相に描かれた姿に酷似し、構造や像の様相から没後に制作されたものと考えられる。
 なお、江戸時代に編纂された『若狭郡県志』には、「谷田部村長徳寺中有僧形之木造、相傳、武田元光之像而自作也、近世寺僧請取其像、携来而安寺彿傍。」とある。また、『拾椎雑話』は、「矢田部村雲外寺は小浜栖雲寺潤甫和尚の山荘也。和尚は元光公の兄也。年経て寺荒廃せり、傍に小茅舎有、木像を置、是を御影様と斗申伝へてしる人なし。是元光公の像なり。元禄の頃発心寺へもらはれ候。」として元光像であることを強く述べている。
 若狭武田氏歴代では唯一の木像で、像高は59.0p。室町時代末期頃の作と考えられるが、守護職であった元光の生前の雄々しき姿を伝える貴重な像である。
若狭小浜デジタル文化財記載文章より)

武田元光の墓

当日はお盆で忙しそうだったのですが、お寺の方が対応してくれました。最初にお寺の奥の方まで案内して頂いて木造武田元光像を見せてくれました。写真撮影も許可を頂きました。また武田元光の墓も場所と行きかたを教えてもらったのですがなかなか見つけることができず苦労しました。高く土が盛られた上に立派な宝篋印塔がありました。

 

 
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